10月下旬の日曜日の昼下がり、二人はパスタ屋にいた。意外なことに普段はこの二人、ネットや電話でのやりとりはほとんどしない。この対面の時間を生活の節目にするかのように。
「ここ、色々食ってみたんだけど、一番ペペロンチーノがうまかった」と彰が言った。
「じゃ俺もそれで」
「ペペロンチーノ二つ。それからこのグラスの白ワインと炭酸水。それからバゲットを二皿」
しばらくして料理が運ばれてきた。
「仁。誕生日おめでとう」彰が言った。
「ありがとう。そういえば、よく家で俺の誕生日に3人でケーキを食べたよね。親父が買ってきてくれてさ。チョコレートの」
「そうだった。スーパーの安いやつな。あれはあれで結構うまいんだ。文化ってのは大したもんだよ」
彰はペペロンチーノを平げた後、皿に残った油をバゲットで拭き取り「周りがパリッとして中はもちっとしてる。このパンはなかなかのもんだ」と言いながらそれを口に入れワインで流し込んだ。
「キリスト教ではぶどう酒はキリストの血、パンはキリストの肉と言われててさ、俺はクリスチャンではないが…」と言いながら、彰はさらにもう一口、キリストの肉をその血でうまそうに流し込んだ。
それを見た仁が「俺も一杯飲んでいいかな」と言ったので、
「教会のミサでは17歳でもキリストの血を飲んでも良いということになっているらしい」と口実を付けた彰はグラスの白ワインをもう一つ頼み、二人は改めてワインで乾杯した。
「そういえばさ、俺の学校にドラッグに手を染めてる奴がいるんだ」
「17歳でか。まさかお前は手を出してないよな」
「うまくかわしてるんだけど、俺もしきりに誘われる。ほら俺の学校あまり柄がよくないでしょ」と仁が言った。
「ま、俺も酒は未成年で飲んだものだが、意識に作用させるクスリってのは病気のやつのためのものだと俺は思う」と彰が言った。
「みんな普通の高校生だよ」
「何かに不満なんじゃないか。それをクスリで誤魔化してるんじゃないのか」
「いや、俺も不満だらけだよ。俺、母ちゃんの子供だからさ、時々ろくな人間にならないんじゃないかな、と思うことがある」
「そんなことはない。お前の母さんは素晴らしい女性だ(彰のなかでいささか疑問符はついたが、少なくとも目の前の少年に断言すべき理由はあった)」
「それ本気で言ってる?ちょっと聞いた話だと、最近母ちゃんは男の人と暮らしてるとか」仁は笑った。
「お前が小学校で友達にいじめられた時、母さん校長室に怒鳴り込んでいっただろ。『知らねえふりしてんじゃねーよ』ってさ。お前の母さんは自由の申し子だ。四分の一はアメリカ人の血が入ってるからかもな。とにかく誰にも邪魔できない自分の世界観を持ってる」
「アメリカ人の血か…」仁が呟いた。
「お前も何かに打ち込めるといいんだけどな。お前はかなりまともなほうだし、小さな時からしっかりしてるよ。半分本気で母さん以上にしっかりしてる。お前の本当の父さんがしっかりしてる人なんじゃないかな。それは冗談だけど、そういえば…」言いかけると彰はかばんから本を取り出した。
「この本知ってるか。孫子って言うんだけどお前に渡そうと思って」
「何それ」
「戦い方が書いてあるんだ。人生のな。中国の古典だよ」
仁は受け取った本をパラパラとめくった。
「風林火山って孫子だったんだ。武田信玄の」
「元々はな。お前歴史好きだから、結構ハマると思うよ」
ワインを飲み干した後、甘いものでも食うかと、彰はジェラートを2つ注文した。
「そういえば、結婚する前に、お前の母さんとボロい車で夜の海に行ったんだよ」彰が言った。
「どこの海?」
「確か江ノ島のほうだった」
「車で砂浜まで入れるようになってて浜辺に入って行ったら、車のタイヤが砂にハマっちゃってさ。そういう時に出ようとアクセルを踏めば踏むほどタイヤが空回りしちゃって砂に埋まっていっちゃうんだよ」
「へえ」
「ついに車のボディがべったり砂浜に着くところまで埋まってどうしようもなくなっちゃった。途方にくれてるうちに、夜が明けちゃったんだ」
「最悪だね。カッコ悪…」
「そしたら朝の5時ごろかな。向こうから散歩してるおじさんがきたわけ。俺たちが困ってるのを察したのか、向こうにあるあの石を持ってこいよと俺に言うんだよ」
「へえ」
「俺が言う通りにするとタイヤの下の砂を掘って、そこに石を噛ませて、何かうまいことやって車を出してくれた。俺は本当に助かってお礼を言ったんだけど『礼はいらない。君も困った人がいたら助けてやれよ』と言い残して去っていった。今も覚えてる、なかなか渋いおじさんだった」
「そのおじさんの言った通りに、親父も誰か助けた?」
「残念ながらそういうチャンスってないんだよ。まず困ってる人に出会わないし、仮に会っても助けてやれる力がなかったりする」