智恵子はどこかで達正がどんな状況になったとしても、この義理の両親がいるなら大丈夫だと思っていたのだ。その一方で達正への信頼感は日々薄れていく一方だった、智恵子は心のどこかで「将来1人で百合と梨花を育てていくのではないか」という思いが渦巻いていた。それは考えるだけで絶望的に不安で漠然としていて、でも確かな勘のようなものだった。智恵子は百合と梨花を連れて登山を始めた。もしかしたら将来1人で娘2人を立派に育てていくために、自分自身を強くするのだ。登山に必要な計画性、実行力、ちゃんと帰って来れれば強くなって自信もつく。一番最初は高尾山から登った、毎年毎年4~5個の山を登った。山に登るたびに「将来1人で娘2人を育てても大丈夫」という思いが強くなっていった。
智恵子にとって苦しいばかりの結婚生活の中でもほんの少しはいい事もあった。夏休みや冬休みになると達正は車を出し家族旅行を楽しんだ。冬休みは達正の実家に帰省がてらスキーを楽しみ、夏休みには黒部ダムや葡萄狩りなど(達正はカナヅチのため水遊び以外)積極的にバカンスを楽しんだ。智恵子にとって長期休みだけがホッと一息つけるひとときだった。達正もこの時ばかりは時間を共にし、智恵子が求める幸せな家族が旅先にはあった。
達正の会社は得意先の倒産と共に徐々に傾き、達正の夜間のバイトなしでは生活できなくなっていった。夜間のバイトといってもキャバ嬢の勤務後家まで送り届けるというママ友の前では言いにくい仕事だった、その仕事も何らかの事件と関連があり警察が取調べに家まできて大騒ぎになって辞めた。達正の会社は倒産し、やがては家に引きこもるようになった。何ヶ月か引きこもり、その後も達正は職を転々とし、また引きこもるを繰り返した。職についてもすぐに「会社で金が必要になった」と会社絡みの言い訳で智恵子の職場までお金を取りに来るようになった。
智恵子は悶々とした。働いても働いても稼いだお金は生活費でもなく貯金でもなく、達正の補填に消えていくようになった。
ある日智恵子がポストを覗くと、消費者金融業から催促書が届いていた。智恵子は金融業出身である、「この一枚の催促書は決して一枚で済まされる問題ではない。しかも催促書が届くということは支払いが滞っている状態なのだ…まだ知らない借金が何箇所もあるはずだ…」当時の年利は上限29・2パーセント。もし残高が100万なら、1年間で支払う利息は29万円にもなるのだ。達正の様子を見ていると借入は100万円ではすまないだろう。もし300万円あったら1年間の利息は約87万円。利息だけでも毎月7万円以上になってしまう。残高によってはもう智恵子の力ではどうしようもできなかった。不安で心臓がはち切れそうになりながら受話器をとった。達正の両親に相談するために。
達正の両親はすぐに甲府から駆けつけた。そして智恵子は達正の両親から耳を疑うような話を聞いた。
「達正には何冊通帳を渡したかわからないくらいよ。そうね、五センチくらいはあったかしら。智恵子さんたちの生活費に必要だからって言って。それなのにまだ借金があるだなんて、一体どうなっているの?」
智恵子は頭が真っ白になりつつ、もう顔もこれ以上ないくらいの興奮と怒りで真っ赤になりながら「この古い住居を見てください。そんな大金を注ぎ込んでいるように見えますか?おかげさまで娘たちは頂いたブランドのワンピースやセットアップやらで華やいだ衣装を着ているけど、私のこの全く垢抜けない洋装を見て仰ってますか?一体何に使ったのか私が聞きたいくらいです!」と冷静に現状を説明し、その場を切り抜けた。その後借入に関して達正に問い詰めても、借金は倒産した会社が原因の一点張りで智恵子が納得する答えは得られなかった。借入価格は400万円を超えていた。幸い達正のご両親は今回に限りという条件で消費者金融業からの借入は立替てもらったが、その後も達正は、事あるごとに智恵子から生活費として渡した金額以上を智恵子から毎月用立ててもらっていた。
智恵子の中で「もしかしたら1人で百合と梨花を育てる」という漠然とした不安は「離婚して絶対に1人で百合と梨花を育てる」という希望と決心に変わった。「離婚」することによって稼いだお金は着実に生活費と貯蓄になるのだ。このまま「離婚」しなければ生きている間は永遠に稼いだお金は達正が生きるための補填として消えていくわけだ、自分の手元には残らずに…。こんな恐ろしい事があってなるものか、何としてでも「離婚」して幸せになるのだ。もう一度人生を取り戻すのは「離婚」しかない。不安と失望の塊になっていた智恵子の心に「離婚」という明かりが灯った。
「離婚」と言っても離婚したらおしまいではない、百合と梨花と一緒に生きていく生活を確かなものにしていくためには毎月金銭面での協力が必要だ。だが達正は毎月生活費もろくに捻出できない男だ。自分との話合いに誠実に向き合ってくれる訳がない。もっと強制的な、もっと着実な手段で何かないか…百合と梨花は部屋でテレビを見ていた。ドラマか…こどもが出来てからゆっくりテレビも見れなかった智恵子の目に飛び込んできたのは、弁護士のドラマだった、ドラマの中の弁護士は離婚問題に奮闘していた。智恵子は「神様も離婚を勧めているんだ。」と思った。
智恵子は「離婚」という目標を弁護士に委ねた。弁護士費用は智恵子の両親が用意してくれた。弁護士の存在はこれまでたった一人で戦ってきた孤独で不安で惨めで逃げれない道に、出口があることを実感させてくれた。まず智恵子が用意しなければならなかったのが、離婚事由だった。これまでの金銭的なやり取りを全て書き出し、表にし、具体化した。
決めていかなければならないことが沢山あった。親権や財産分与、面会交流、慰謝料、養育費、達正は「離婚」に対して自らの感情を見せることはなかった。まるで第三者が話を聞いているように、親権についても主張する事なく、ただ智恵子の要求を淡々と飲みこんだ。