埼玉県の離婚弁護士 レンジャー五領田法律事務所

プラトニック夫婦①

プラトニック夫婦

19世紀に活躍したアメリカ人コラムニストのアンブローズ・ビアスは、その著書の中で、プラトニック・ラブを「不能と不感症の間の愛情を指す、馬鹿がつけた名前である」なんて独断と偏見で決めつけているのだけど、要するに彼の言わんとするところは「セックスが伴わない男女間の恋愛なんて有り得ない」ということなんだろう。まあそうだよね。普通は。

けれども、いわゆる恋人同士という男女関係ならどちらかが冷めた時点で別れればいいけれど、結婚という社会的契約を交わし、さらには子どもまでもうけた夫婦にとってはちょっと事情が変わってくるわけで、つまりは夫婦間においては必ずしもビアスの定義をそのままあてはめるわけにはいかないのではないか。
少なくとも僕と妻の関係においては…。

僕の名前は大久保洋之。都内のとある中堅食品メーカーに勤める46歳。来年小学校に上がる双子の息子がいる。
生まれ故郷である金沢の高校から都内の大学へ進み、ごく普通に就活から新卒入社してそろそろ二十余年。それなりにまじめにコツコツ働いてきたことが評価されてか、来年度からは次長に昇格することが内定している。
仕事人間というほどではないけれど、世の多くのサラリーマン同様、出世もしたいしそれなりにヤリガイも感じているし、給料もそこそこ、どちらかといえば家庭よりも仕事を優先してきたかな。

妻の由香は僕と同じ46歳。彼女は高校時代の同級生で、当時はお互いの存在を知っている程度だったんだけど、10年前に同窓会で再会したのをきっかけに東京〜金沢の遠距離恋愛がスタートした。
その頃、由香は地元金沢の広告代理店でクリエイティブ関連の仕事をバリバリこなしており、早くに結婚して専業主婦になった同級生たちの中でもひときわ輝いていた。僕も由香もそれまでに何人かの相手と交際したことはあったけど、僕はたまたま前の彼女と別れたばかり、由香はちょうどフリーだった。由香によるとそれまで付き合った男性はみんな、深く知れば知るほど根っこの部分での価値観が自分とはちょっと違っており、一年も続かなかったそうだ。

同郷だから僕は何かと口実をつくっては頻繁に帰郷し、そのたびに由香とデートを重ねた。彼女は一本気で周囲に流されることなく自分を貫くタイプで、ちょっと勝気なところもあるけどそれもまた魅力のひとつ。同い年ということもあってか、何でも対等に話せるし考え方も近い。高校時代の思い出、仕事のこと、家族のこと、人生のこと、いま世の中で起きていること、くだらないこと…。いろいろなことを語り合った。

遠距離恋愛というのは好きな時にすぐに会えないという大きな欠点があるけれど、自由に会えないからこそ、ふたりで過ごす貴重な時間を大切にできる。そのひとときを一分一秒も無駄にしたくないから、相手を思いやるし寛容で優しくなれる。セックスも濃密で刺激的なものになる。30代半ばの男盛りと女盛りで、あまり品のいい言い方ではないけれどとにかくやりまくったよ。ホテルにこもって朝から晩までやったこともある。
全てが自由で、新鮮で、今振り返ってみると僕の人生でこの頃が一番楽しかったひとときだったかもしれない。

実際に言葉に出すことはなかったけど、年齢のこともあったし、付き合い始めた早い段階から僕も由香もぼんやりと結婚は意識していた。ただ、お互い仕事が充実していて楽しかったこともあって、その頃はどちらかが仕事をやめるという発想はなかった。
ところが、由香の会社が企画した大きなイベントが、スポンサー企業の突然の撤退で開催直前に中止を余儀なくされたことがきっかけで資金繰りが悪化。見切りをつけた能力のある幹部社員が次々と会社を離れていく事態に発展する。

由香が夜中に泣きながら電話をかけてきた時のことは、今でもよく覚えている。
「私、会社…辞めようかな」
「どうした?何かあった?」
「平山さんも辞めちゃうんだよ」
「そうなんだ?入社した頃からずっと世話になってて、仕事のイロハを教わった上司がいなくなるのは辛いね」 
「同じ部署の仲間には前から内々で話があったんだけど、いよいよ今月いっぱいで辞めて独立するって。美佳子は平山さんについていくって言ってる」
「それで由香はどうしたいんだい?由香も平山さんについていく?」
「私も誘われた。でも、私は平山さんも含めて今の社風というか雰囲気がすごく好きだったんだよね。肯定的で前例に囚われず何でも挑戦させてくれるところ。でも、平山さんが立ち上げる会社はしばらくは手堅い案件しか扱えないと思うし、本人もそう言ってた」
「由香には会社に残るという選択肢はないの?」
「なくはないけど、ボーナスも当分ないだろうし、もしかしたら潰れる可能性もあるって言われてる。平山さんは独立するし、田中さんも先月辞めちゃったし。あのふたりは会社のツートップだったから」
「残ったとしても今までと同じようにはいかないってことか」
「そう。平山さんのところに行っても、今みたいな仕事はできそうもないの」
「そうか…。じゃあ、東京に出てくるか?」
「え?」
「結婚しよう」