「いま、そっちに行きます。絶対に飛び降りないでくださいね」
女性は佑香のところまで来ると柵を挟んで佑香の体を抱き寄せ少しの間そうしていた。佑香には何が起こったのか理解できなかった。しばらくして女性は佑香を抱きかかえ柵のこちら側へと連れ戻した。
「本当に良かった。飛び降りないでくれて」どこの誰かも知らない女性だったが妙に頼れる印象があった。
「ここまで来てしまったあなたはきっと深く傷付いているのでしょうね。よかったら少しお話を聞かせてもらえませんか」
「何を話せばいいんでしょうか。話せるようなことは何も…」佑香が言った。
「誰かご家族とか、相談できる人はいますか。私が代わりに連絡しますよ」
「いません。私は何をしようとしていたのでしょうか。頭がぼんやりしてしまって…」
「そうですか。私は仕事でいつも人の相談に乗っています。私は猪狩と言います。仕事で慣れていますので、どんな話をされてもおそらく驚くことはないと思います。私でよければどんなお話でも聞きます。もちろん絶対に誰にも話しませんし、それはいつもの仕事と同じことです」
それを聞くと佑香はこの人だったら大丈夫かもしれないというような安心感を覚えた。そんな佑香の肩を猪狩はまた抱き寄せた。佑香の目から涙がこぼれ落ちた。泣いたのは久しぶりな気がした。気づけば次から次へと涙がこぼれ落ちてくる。一通り泣いた後、佑香は猪狩に洗いざらい話をした。何しろ橋から飛び降りるつもりだったのだから、佑香にとって話せないことなどもはや何もなかった。ほとんど思い出せることはすべて話した。話したあとは驚くほど心が軽くなった気がした。心に何重にも巻きついていた重く冷たい鎖が外れていくような心地の良い感じであった。何年かかけて少しずつ奇妙な地底の世界、もしくは死者の国のようなところに迷い込んでいたのではないかと思えてきた。
「お話してくださってありがとうございました。あなたは大きな問題をご自身で抱え込んでしまっているようですが、実はあなたのような方ってたくさんいらっしゃるんですよ」猪狩は言った。
「私みたいな人が?」
「佑香さんは慈愛に溢れた方だと思います。そんな性格も悪いことばかりではないと思いますが、佑香さんのような方はご自身への愛を忘れてしまいがちなんです」猪狩が言った。
「気づけばたくさんのものを背負ってしまっていました。出産って本当に苦しいはずなのに、どうしてまた2人目、3人目を産んでしまったのかがわからないんです。妻としてできる限りのことをしようとそれだけを考えてきました」佑香が言った。
「子供を産んだ母親は、1人の人間が世に生まれ出た喜びのためにその苦痛を思い出さないそうですよ」猪狩が言った。
佑香ははっと何かに気づかされた。夢から覚めたような感じだった。5人の子供達のことだった。なんということをしたんだろう。急に子供達のことが心配になった。佑香が我に返ったのを待っていたのはむしろ猪狩の方のようだった。自分がいなければ子供たちは死んでしまうかもしれないのだ。
「私、戻らなきゃ」
「早く戻ってあげてください。それから、佑香さんは自分の思うように、好きなように生きてください。佑香さんが失われた尊厳を取り戻してくださることを願っています」猪狩は言った。
「はい。本当にありがとうございました。私、子供達のところに戻ります」そういうと佑香は全力で走り出した。走りながら佑香は突然目の前が開けたと同時に自分の中に大きな力が湧き上がってくるのを感じた。家に帰ると、子供たちは何事もなかったかのように眠っていた。一人一人子供達の寝顔を見ていくと、なぜ魚になろうなどと考えたのかが信じられなくなり涙がこぼれ落ちた。
翌日は朝から雨だった。その日は勾留中の剛の接見に行くことになっていた。着替えを持って行き、これからのことを話すのだ。通常ガラス越しに交わされるのは自由を奪われた男と身元引き受け人の女の義務的な内容の話である。