埼玉県の離婚弁護士 レンジャー五領田法律事務所

猪狩③

猪狩

一方でこんな中でも佑香を悩ませたことがある。それは、妊娠中や出産後の身体が完全に回復してるとはいえない状況でも剛が性交を求めてくることであった。また剛は相変わらず避妊をしようとしない。佑香がその要求を拒むと剛は不機嫌になり暴言を吐いたりするのだ。佑香は密かに自身で避妊しようと思ったが、それが剛にわかった時に暴力がエスカレートするのではないかという心配からそうしなかった。本当のところは抵抗する気力が残っていなかったといった方が正しいのかもしれない。

そんな生活を続ける間に、剛と佑香の間にできあがった上下関係は揺るがぬものとなっていた。佑香は剛に支配された状態になった。そして仕事でストレスを抱えている時などに剛は佑香に殴る蹴るの身体的暴力を振るうようになった。しかし、暴力を振るった後、剛は妙に優しくなる。心から謝られもう二度とそのようなことはしないというような具合に約束をするのだ。そして謝罪後の儀式として決まって性交に至る。その時だけは佑香はまだ自分を愛してくれている、子供が自分と夫とを繋げてくれると思うのだった。「もう1人生まれれば剛が優しくなるかもしれない」と自分に言い聞かせるように淡い期待を抱くのだ。もう1人生まれてくれば、きっと状況が変わってくれるのだと。そして1年後には5人目となる女児を出産した。

家庭内暴力がエスカレートすると同時に、不思議なほどに周りの人との付き合いがなくなっていった。元々付き合いの薄い遠方に暮らす互いの両親はもちろん、数少ない友人の恵理子に最後に会ったのがいつだったかも佑香には思い出せないほどであった。4人目を産んだ後くらいだっただろうか。「相談に乗るから何でも話して」と恵理子に妙に心配されたことが記憶に残っていた。その時、佑香はまだ自分の力で何とかできると思っていたこともあり話すことはしなかったが、もしかすると恵理子は佑香の手や足にできた痣や傷に気付いていたのかもしれない。

もちろん自分でも29歳で5人目を出産する女性がそれほど多くないことは十分すぎるほどわかっていた。しかし、暴力は容赦なく佑香のから選択の自由を奪い去り、もはや自分の意思で出産しているとも言えない状態だった。生活の全てにおいて佑香は常に剛の暴力に怯え、自分の意思を介在させることができなくなっていた。佑香は自分の身体のどこかが既に深刻な病に冒されていて、近い将来病死してしまうのだという気さえした。実際に精神は完全に病んでいた。精神科にいけば確実に何らかの診断を受け、子供と引き離されてしまうかもしれなかった。自分が死んだとしても誰にも本当のことはわからない。剛はきっと妻を病気でなくした哀れな夫と見られるのである。剛はきっとそれさえも自分のプラスに変えてしまうだろう。それで人を巻き込んで生きてきたような人なのだから。もしかしたら、剛は他人の心を自分の養分にして生きている悪魔なのかもしれない。そして自分は悪魔の養分となるだけの存在かもしれないとも思った。佑香の目は輝きを失い、ただ一日をやり過ごすことしかできなくなった。

それから半年ほどったったある夜、深夜に警察から一本の電話がかかってきた。剛が覚醒剤所持の現行犯で逮捕されたというのだ。佑香は何かの間違いではないかと思ったが、警察の話によると剛は覚醒剤だけでなく不法なビジネスにも手を出していたようで、反社会的勢力との付き合いがあり捜査対象となっていたとのことだった。詐欺容疑での捜査も同時に進んでおり、近く立件される見通しだという。

佑香は完全に自分の無知さを後悔したが既に遅すぎた。何しろ5人の子供の命を預かっているのだ。剛が逮捕されてから段々と自分を責めるようになっていった。私がもっとしっかりしていればこんなことにならなかったのかもしれない。あまりにも重すぎる十字架を背負ってしまった。佑香は深い後悔の念に苛まれた。それから、何日も何日も佑香は悔やみ続けた。この先どうなってしまうか全く予想もできなかった。ただ剛がいなければ生活していくことができないことは明白だと思った。

ある時から佑香はこの苦しみから解放されたいと一心に願うようになっていった。愛する子供達のことも頭にはよぎった。それよりも、今自分が息をしていることの方が苦しかった。もう自分にはなんの力もない。人間の尊厳の全てを失い、ひとかけらの希望さえも失ってしまった。自分の全てを悔いることはできたが、それを改める気力は佑香にはもう残っていなかった。

その頃から佑香は、自分が魚になり冷たい水の中を泳ぐ同じ夢を何度も繰り返し見るようになった。同じ夢を見る度に水の中に飛び込めば魚になれるのだとの確信を強めていった。人は母親の胎内で人の進化を辿るのだという。人はほんの小さな細胞から始まり、水の中で魚のような形になる。少しずつ手や足が形作られていく。その昔、人は水の中で暮らしていたのだ。

ある晩、子供たちが寝静まった頃に佑香は家を出た。ほんのひととき、魚になることにしたのだ。足取りは驚くほど軽く気づけば晴海運河にかかる大きな橋の中央にいた。佑香は柵から身を乗りだして下を覗き込んだ。水面までは軽く20メートルはありそうだった。レインボーブリッジの向こうに船の灯りが見える。おそらく東京湾に向かっているのだろう。時々車道を車が走るが、大きな鉄柱が死角になり佑香からは時折車のヘッドライトの明かりが見えるだけだった。佑香は柵を乗り越えた。水面のうねりを見ようと真下を覗き込んだが、水面は黒すぎるほど黒いブラックホールのようであった。佑香は今度は上を向き目を閉じて両手を広げた。佑香の身体は11月の終わりの強く冷たい向かい風に溶けてしまいそうだった。少し重心を前に倒すと風が押し返して来るような気がした。佑香は風との対話を楽しんだ。

その時「ちょっと待ってください」と叫ぶような声が聞こえた。気のせいかと思ったが、ふと我に返ると柵の向こう側にグレーのコートを着た女性が立っているのが見えた。いかにも会社帰りと言う格好の女性であった。その女性の大きな声に驚いた佑香は身動きができなかった。