真一が全てを知ったことに気づいていない美帆は、その後も今までと全く同じ様子で、一家は何のトラブルも無いかのような毎日が続いていた。
美帆は浮気していることを隠し、真一はそれに気づいていることを隠している。はたからは一見幸せな家族生活を過ごしているが、それはお互いが隠し事を持った見せかけの幸せを演じているだけなのだろうか。
しかし、たとえ偽りの幸せであっても、ふたりが隠し通すことで維持できるのならば、もっと言えば真一さえ知らないことにすれば、下手に表面化させて家庭を破壊させるよりずっとマシなのではないか。いや、それはあり得ない。自分だけが苦しんで、不貞を働いている美帆に何の罰も与えられないのはあまりにも不公平だ。
様々な考えが真一の中で錯綜していく。自分がどうすべきなのか、混乱した真一自身わからなくなっていた。
「ちょっと出かけてくる」
土曜日に真一が向かった先は、ネットで評判の離婚案件の実績が豊富な某弁護士事務所であった。これまでのいきさつを聞いた弁護士は真一に言った。
「もしあなたが離婚をお考えなら、法的には何の落ち度もないあなたが圧倒的に有利です。娘さんの養育権も手にできるし、相手男性に慰謝料を請求することも可能です。奥さんに対しても慰謝料を請求できます。その場合、財産分配時に相殺されるのが一般的ですが」
「そうですか」
「一つ確認させてください。高原さん、あなたは離婚したいのですか?」
「そ、それが…」
「あなたの苦しい気持ちはとてもよくわかります。言い出しにくいことでしょうが、まずは奥さんとじっくり話し合ってください。そして、最初から離婚ありきではなく、ご家族にとってどうするのが最善なのか、まずはあなた自身が決断することが大切です。感情的になって奥さんや浮気相手に罰を与えるとか復讐するとかではなく、これから家族が幸せになることを最優先に考えてください」
帰路の途中、、。真一は考えた。
『俺自身はどうしたいのか…。浮気の事実を美帆に突きつけて林と別れさせる?それは可能かもしれない。ただ、別れさせても夫婦の間にしこりや不信感は残るだろう。それでも知ってしまった以上、このまま黙ってふたりに関係を続けさせるわけにはいかない』
ある金曜日の夜、意を決した真一は美帆に切り出した。
「美帆、話したいことがあるからテーブルのところに来てくれる?」
「なんの話かな?」
真一がこんな改まった形で話そうなんて美帆に言ったことはこれまで一度もなかったのに、やはり美帆は真一に気づかれているとは夢にも思っていなかったようだ。
「あれこれ問いただすのは俺も辛いから端的に言うよ…。林と別れてくれ」
一瞬で美帆の表情が凍りつき、もうそこに言い逃れの余地がないことを察した美帆の肩は小刻みに震えていた。
「いつ、いつから気づいていたの?」
「先月の7日だよ。雨の日。五反田で見た」
「そうなんだ…」
しばらくの沈黙の後、全てを知られてしまったことを悟った美帆の目から涙が流れてきた。
「ごめんなさい、真ちゃん…」
「うん。だから別れてくれと言ってる」
そこからまた長い沈黙が続いた。美帆がすぐに腹をくくって別れることを約束すると予想していた真一は、美帆からそういう言葉がなかなか出てこないことにだんだんと苛立って来た。
「なんですぐに別れると言わない?家庭を壊したいわけ?」
「壊したくない…」
「じゃあ、林と別れるしかないだろ。何なら俺が八潮に乗り込んでもいいんだぞ」
「それだけはやめて!林さんに迷惑かけたくない」
泣きながら美帆が訴える。
「何言ってんだ?俺や家族に迷惑かけてもいいけど、林にだけは迷惑をかけたくない?一体どういうつもりなんだ?」
「林さんは悪くないの。私が悪いの。林さんは悪くない」
「人の女房に手を出しておいて悪くないわけないだろが。ジジイのくせに!」
必死で林をかばおうとする美帆の態度に、真一も興奮して声が大きくなってくる。
「確かに人当たりは良さそうに見えるけど、実は人の女房にちょっかい出すエロジジイじゃないか。そもそもヤツにも家庭はあるんだろ?」
「真ちゃんは林さんに会ったことがあるの?」
「ある。とは言っても、単なる客と店長としてだけどな」
「そういうことね。林さんはひとりなの。バツイチ。別れた奥さんとの間に、大学生の娘さんがいる」
「ああ、そうかい。でも独身だからって人妻に手を出してもいいってことはないだろが。美帆はエロジジイに遊ばれてるんじゃないのか?」
「林さんはそういう人じゃない!私の方からこういう関係を望んだの」
「美帆の方から?美帆は俺に何か不満でもあるのか?」
「…」
「いいからはっきり言ってみろよ。何が不満なんだ?」
美帆は林との出会いから交際に至る経緯を話し始めた。
美帆がパートを始めた時の店長が林で、最初は普通に店長とパートの関係だったが、2年ほど前に、ある年配の主婦がパートとして入って来た頃から林と美帆は親密になり始めたそうだ。三浦というその年配の主婦はトラブルメイカーで、店長に相談なく強引に勤務時間の交代を押し付けたり、その場にいないパート仲間の悪口や根拠のない噂話を流したりして、店の雰囲気が悪くなってきたそうだ。人からの頼まれごとを断るのが苦手な美帆は、特に迷惑を被っており、ある時林に相談した。
林もすでにトラブルは承知しており、三浦に度々注意はしていたそうだが、改善が見られなく困っていたとのこと。その後、美帆が店長に告げ口したと思い込んだ三浦からの美帆に対する嫌がらせが激しくなり、美帆は再び林に相談した。
「本当にごめんなさい。僕の言い方が悪かったのかもしれない。まさか三浦さんが高原さんに対してそういう態度に出るとは思いませんでした。もうこの際、ここまで店の人間関係をひっかき回した三浦さんには辞めてもらうことにします」
話の途中から泣き出してしまった美帆に林は言った。
「心配しないでください。もし、万一店を辞めた後も何らかの形で三浦さんが嫌がらせを続けるような場合は、必ず僕が高原さんを守りますから」
その後、店を辞めた三浦から美帆が嫌がらせを受けることはなかったが、それまで何度も個人的に相談しているうち、林の誠実さと優しさに、美帆はどんどん惹かれていった。
それからしばらくして、林が八潮店に転勤になることが決まった。
「林店長って異動になるの?」
「高原さん、知らなかったの?今月いっぱいだって。品川の方のお店に行くらしいよ」
美帆は林が真っ先に自分に知らせてくれなかったのが不満だった。
「林さん、転勤するんですか?」
「はい。来月から八潮店の店長です。ここには今、埼玉の店舗にいる若くて元気な店長が来ることになってますよ」
「そんなこと、何で私に一番最初に教えてくれなかったんですか?」
「えっ?」
「もういいです」
林の送別会で痛飲した美帆は、泣きそうになるのをこらえるのに必死だったそうだ。会の終わり際、林は人に気づかれないようこっそりと美帆にメモを渡した。
《いろいろありがとう。何か困ったことがあったら、いつでも連絡下さい》
メモには短いメッセージと携帯番号が書かれていた。