埼玉県の離婚弁護士 レンジャー五領田法律事務所

谷川岳①

谷川岳

真夏の太陽が降り注ぐ中、智恵子は谷川岳の頂上にいた。先ほどまで涙が止まらなかったけれど、ようやく気持ちが落ち着いてきた。高ぶった気持ちを落ち着かせようと大きく息を吸い込んだ。2人の娘と手を繋いで、眼下に広がる景色に自身の人生を重ねていた。
途中険しい山道もこれまでの険しい結婚生活も、今自分は見下ろしている。

「この山を登れたなら、きっともう離婚しても大丈夫。」そう智恵子は胸に言い聞かせた。
娘の百合も梨花も母の手を強く握っている。小さい頃から一緒に山を登ってくれた娘たちが、智恵子を強くしてくれた。
「離婚だ!別れるんだ!」智恵子にとって「離婚」という言葉は希望の塊だった。下山の道は輝いていた。目に入る木漏れ日や鳥たちや全てのものが自分をお祝いしてくれているようだった。

 智恵子の旦那の達正は容姿端麗で、言葉遣いも仕草も紳士的だった。
2人の出会いは、ミニシアターと隣接している小さなカフェのバイトだった。バイト先での達正は料理も接客もベテランで、バイトが初めての智恵子にとって頼りになる存在だった。加えて達正は知識も豊富で遊びにもたくさん連れて行ってくれた。智恵子は真面目な性格で、見た目は可愛らしい容姿をしていたが派手な遊びには興味がなく、地味な毎日を智恵子なりに楽しんでいた。映画や読書には智恵子なりのこだわりがあり、時間がある時にはミニシアターで映画を楽しみ、カフェで覚えた料理を作ったりと智恵子の日常は穏やかで優しい時間に満ちていた。

 そんな智恵子が華やかな達正に惹かれ、特別な関係になるのは時間がかからなかった。
智恵子は短大卒業後、東京都内の金融会社に勤めた。OL生活は充実していたが、同級生が家庭を持ち始めると結婚を意識するようになり智恵子が27歳、達正が28歳の時に結婚を決めた。智恵子は結婚を機に退職し、通信教育で保育士の資格を取った。新居は2DKのマンションと広くはないけれど、智恵子の好みが詰まった空間だった。手作りのリネンのカーテン、深いブラウンの丸い円卓のテーブルセット、食器は華やかな食器ではなく、趣のあるアースカラーの食器が並び、窓辺にはコーヒーの木が置いてあった。そこは智恵子がバイトをしていたカフェのインテリアにどこか似ていた。

だが幸せいっぱいであるはずの智恵子の結婚生活は、底無し沼の上に立っているような日々の連続であった。結婚してすぐ達正は、智恵子の知っているバイト先のチーフの後藤と一緒に配膳人材紹介所を立ち上げたが、それを機に達正の人生は狂いはじめた。
 達正は長女の百合がお腹に出来た頃から家に生活費を全く入れなくなった。後藤に確認しても、「お給料の支払いはしている、達正の方で仕事で精算しなければならないことがあるみたいだ。」という返事だった。達正は会社の事務所に泊まり込み、家に帰らない日々が続き、コミュニケーションも取れず悶々とした日々が続いた。生活費は智恵子の実家に頼る日々が続いた。

 お腹のこどもが大きくなるにつれ、どうしようもない不安に襲われた。本当だったら命の誕生を達正と一緒に楽しみに待ちたかった。誰もいないひとりぼっちでこのお腹の子を守っていけるのか…不安しかない妊娠生活を智恵子は懸命に乗り切った。達正はいつ生活費を入れてくれるか分からない中、出産準備もしなければならなかった。智恵子は洋裁が得意だったのが幸いして、なんでも布を買ってきてひたすら縫った。オムツまで縫った。智恵子は里帰り出産し無事に長女の百合を出産したが、しばらくは生活費が貰えず、実家から帰れなかった。
 百合が生まれてしばらく経つと、仕事が落ち着いたのか達正は家に帰る日が多くなり、育児を手伝うようになった。達正の収入は不安定ではあったが、智恵子は百合に兄妹を作ってあげたかった。何とか節約と工夫を重ね、3年後次女の梨花が誕生した。智恵子は百合が小学生に入学すると取得した保育士の仕事に就き、少しでも安定した収入の確保に全力を上げた。達正は後藤との共同運営に見切りをつけ、配膳人材紹介所の自身の会社を立ち上げた。

 2人の娘はすくすく育った。百合は活発で楽天家、まっすぐで男まさり、近所では気の強さで公園でもかなり有名だった。一方梨花は優しくおっとりしたこどもで百合とは真逆なこどもだった。梨花が小学生に上がる頃から、達正はまた会社に寝泊まりすることが多くなった。智恵子にとって百合と梨花の子育ては楽しかったけれど、ママ友との会話で智恵子自身の結婚生活に疑問を持つようになった。

 他の家族には当たり前のようにある安定した生活費、育児に協力してくれる旦那の存在。智恵子は他の家族が羨ましかった。智恵子は幸せそうな家族で溢れている休日のショッピングセンターが大嫌いだった。その幸福感に満ち溢れた空間に智恵子は一人浮いている感じがした。百合も梨花もたまにはフードコードで好きなものが食べたいのだ、仕方がない…でも足を踏み入れたショッピングセンターはいつも智恵子に知り合いの幸せな家族との遭遇をもたらす不快な場所だった。智恵子は何も買えなかった。智恵子は何も食べれなかった。娘たちを食べさせることで精一杯で、娘たちの向かいに座って水で空腹を凌ぐしかなかった。幸い百合と梨花の洋服や身の回りのものは達正の両親が事あるごとに送ってくれた。達正は裕福な環境で育った、達正の父は経営者でお金は十分にある家庭だったのだ。