僕は脈略もなく異議を出したり意味もなく検察官請求証拠を不同意にしたりして裁判官を困惑させることを趣味にしている。その態度は親から譲り受けた性悪に由来するものだったが、期せずして僕の依頼人たちを無性に喜ばせていた。だが、どうやら肝心要の妻を喜ばせることには失敗したようだ。
ある日、彼女は近い内に子供を連れて出て行くと僕に告げた。僕はそれを諧謔(かいぎゃく)の湿る何かの冗談だと思った。だから、妻の別居はハーグ条約(※1)に違反する連れ去り別居に該当するだろうか。そんな訳があるはずがない。それが裁判所で通用しないことはスーパースター弁護士である僕自身が誰よりも知っていた。
伽藍堂になったマンションのベランダからふと空を見上げると結膜炎と相俟って太陽の触手が無限に分岐している。幾千万カンデラの陽光に圧せられ、僕のあまりない背丈が縮まりそうな気がした。季節はまだ初夏だというのに何て了見の日差しだ。妻は県外でも市外ですらない、上の区から下の区に近所に子を連れ去っていた。
「小学校の学区を変えると連れ去りと認定される可能性が高くなります。」
僕が顔も知らない主婦にする無料相談のアドバイスで妻は自然と学習を積み重ねていった。一体どうしてだ。僕はこうならないように学のない高卒の女と結婚したというのに。
どうしてそうしたかというと、インカレで知り合って結婚した僕の両親を間近で見て来たからだ。英語訛りのある母が父を夜な夜な言葉攻めするのは母が国立大学を出ているからだと幼き僕は踏んだ。僕は幼少期に思った、決して国立大卒の女と結婚してはならない。だから僕の小学校の卒業式で語った将来の夢はこうだ。僕は大学に行くけど、高卒の女と結婚します。
そんな幼少期の自らの教えに忠実に生きていた僕だが、これは自身のトラウマの虚しい投影に過ぎなかったのかも知れない。僕は国立大学に行くことだって出来たが、私立大学に進学した。何故なら国立大学に進んだら、罷り間違って国立大学の女と結ばれてしまうかも知れなかったからだ。僕は数学も出来たし、物理だってクラスで一番の成績を取ったことだってある。だけどセンター試験は受けなかった。センター試験を受けて罷り間違ってセンター試験を受けた女と縁由になったら一大事だ。僕は私大のマニアックな問題に対応するために世界史の年号を覚え過ぎて薮睨みになってしまった眼で僕の父を恨んだ。
僕が愛用していた有料の優良マッチングサイトによれば妻の趣味は将棋だ。僕は将棋と囲碁の区別が付かない。妻はある時酔っ払って「私、奨励会に所属していたことがある。」と言った。ただ、僕はそれを「昔、犬を飼っていたことがある。」や「昔、ピアノのコンクールで入賞したことがある。」と同列の情報として受け取っていた。所詮は高卒の女が言うことで大した意味はない。ただ、胸の小ささが気になっていた。本人はEだと言っていたが、どう見てもどう触ってもC位の大きさしかなかった。
学歴がなくて胸の大きな女と結婚すれば人生安泰だと真剣に考えていた。乳がんで若死にするリスクを差し引いても今だってそう考える。その逆は不幸だ。学歴のある女は概して胸がない。センター試験を受けたことのある女の胸はぺちゃんこだ。胸のない女は学歴があり賢い女性である確率が高い。そして僕の言うこと為すことを全て自身の浮かばれない生き霊の投影と看做し、夜な夜な僕を言葉責めする。そんな人生は恐怖だ。それは、数百匹のマダニが一斉に僕の柔らかい皮膚に頭を突っ込む様を想像させる。
※1 ハーグ条約=1980年にオランダのハーグで採択された「国際的な子どもの奪取についての民事上の側面に関する条約」。監護権の侵害を伴う16歳未満の子どもの国境を越えた移動を適用対象としている