「申し訳ない…」剛は言った。
「ううん。私たち家族だから」佑香は言った。
「佑香に頼みたいことがある。まず弁護士費用の支払いも含め、俺の弁護士とやりとりをしてほしい」剛は言った。
「わかった」佑香は応えた。
「それから俺の資産の管理を頼みたい」と言った。
この時、剛の資産状況を細かく聞いた。剛は誰に聞かれてもいいような、夫婦にしかわからない言葉を使ったりしてそれを伝えた。暗に公にできないような金を隠せと言っているようだと佑香は思ったが何も聞かなかった。剛の話によって佑香の知らなかったまとまった額の資産があることがわかった。剛が自らの資産を開示したのは、おそらくまな板の鯉となった剛にとって一番信用できるのが佑香だったからだろう。
警察署を出たのは午後3時頃であった。朝から降っていた雨がやみ、ふと目線を上げると驚くほど澄んだ青空に虹がかかっていた。そう言えば虹は太陽に背を向けた時にしか見えないらしい。雨上がりの虹を見て自分は前を向けることを確信した。「私は大丈夫」佑香は自分にそう言い聞かせて家路を急いだ。
複数の剛の銀行口座には約7億円近くの資産があることがわかった。その夜、佑香は魚になろうとしたあの夜のことを思い出した。猪狩の言った失われた尊厳とは何を意味しているのだろう。佑香はその翌日から数日かけて思い立ったように、剛の口座から半分の資産を自分の銀行口座に移動させた。半分を残したのは、剛の尊厳にまで踏み込めないと思ったから。
それから何回かの公判を経て、剛は詐欺罪で懲役3年6か月の実刑判決を受けた。それを理由にして佑香は剛に獄中離婚を求めた。当初は納得しなかった剛であったが、しばらくしてから離婚を受け入れた。自由を失い、為す術のないことを悟ったようであった。意外なことに親権や財産分与などについても、剛はそれまでのような自己本位な主張をしなかった。剛の弁護士の話によると、彼は刑務所の中で般若の顔をした女に殺される夢を繰り返し見るのだという。男にとって最も怖いのは女の怨念だと聞いた事がある。この世で最も恐ろしいものの対価としては、むしろ剛にとっては安すぎたくらいかもしれない。
離婚してからの佑香には、まるで悪夢から覚めたかのように、あっという間に活力が戻った。自由がもたらす生命力は驚くべきものだ。そして佑香は離婚という経験から、自らの手で幸せを掴み取ることができることを悟った。
今日、佑香は苦い記憶の詰まった品川のマンションを出ていく。子供達を連れて剛の知らない遠い街に移り住んで一からやり直すことにしたのだ。剛の顔を見ることは二度とないかもしれない。それでも剛には本当の自由の意味を知ってくれることを願った。愛する子供達の父親であり、いつか一緒に未来を夢見た人なのだから。
「ママ、早くー」新しい旅立への期待に胸を膨らませて先に部屋を飛び出した子供達が佑香を呼ぶ。佑香と子供達の旅立ちを祝福するように、思い出の詰まった部屋には春の始まりを告げる日差しが優しく差し込んでいた。