埼玉県の離婚弁護士 レンジャー五領田法律事務所

謹賀新年〜埋設されなかった地雷

近所のイトーヨーカ堂でパートを始めたきっかけは妻のドラッグストアのポイントカードを勝手に使って逆鱗に触れたことに端を発する。ポイントカードであれば大丈夫と鷹を括った訳だが、むしろそれは精巧に設置されていた地雷だった。妻は正確にポイントの数を把握していたのだ。ポイントで何を買ったかというと、プロテインである。当時はあまり種類がなく、ドラッグストアにあるプロテインはザバスのバニラ味とココア味の二択であった。どちらを買ったのかはもう覚えていない。私は「なぜ、プロテインを飲むのか?」についてオーウェルの「動物農場」で人間の支配に反旗を翻した豚のような熱弁を振るってはみたものの、妻はただ「働いて下さい」と繰り返すのみであった。子守り以外は法律の勉強をして、寝る前にかつての空飛ぶ闘士としてケルトベルで筋力トレーニングをし、泣き声で目を覚ましてミルクをあげまた寝るという牧歌的な季節はその日を境に終わりを迎えた。

 そして私はイトーヨーカ堂の食品レジで自分がまともにレジすら打てなくなっていることを知って驚愕することになる。それとともに、自衛隊員が口を揃えていうところの「娑婆は厳しいぞ」の「娑婆」を時機に後れて知ることになった。食品レジは女性が支配する園であり、女たちは本質的に私の失態に容赦がない。彼女たちの辞書には「赦す」という言葉が載せられておらず、「赦さない」という言葉が最も美しい言葉として金科玉条されているように思えた。

「あのさ、2階のコンピューターで確認したんだけど、貴方この前入って来た女子高校生よりレジ打ち遅いわ」とパート長が声高に叫ぶ。パート長はまるでジェダイのようにチェックマスターと呼ばれていた。横目を走らすと確かに爪の長い女子高生は小気味良いリズム感でレジを打っている。バツイチのチェックマスターはスチュワーデス然としてマイスカーフを巻きつけてナポレオンのようにレジ打ちたちを指揮し、そして滅多なことではレジに入らなかった。

「あのさ、高校野球で甲子園に行くためには何度も素振りするでしょ?貴方、今日ここに入る前にレジの練習した?みんな練習しているのよ、とっても頑張っている。貴方以外のみんな」とチェックマスターは続けた。打ち間違えを恐れるあまりにレジ打ちが遅くなっていたのは確かだ。全てが愚問になると思い、元自衛官らしく気をつけの姿勢をとっていたが、チェックマスターはそれをあたかも当然のものとして受け入れていた。

チェックマスターは胸のない長身の美人である。不遇なアドレセンス時代に不治の女性恐怖症に罹患した私の皮膚感覚によれば、男性に換算すると鎖釜を首に巻きつけた2メートルの巨漢になる。空挺降下に失敗して膝を不具にした私がとても敵うような相手ではない。イトーヨーカ堂のレジ打ちには厳格な作法があり、手のひらを上にして商品をスライドすることでバーコードを反応させ、決して手の甲をお客様に見せてはならない。お辞儀の仕方からセリフまでの全てが統制されていた。私はそのころ自分がどこかの店に客で入る際も、その店員がレジを打つ作法を物陰から確認してからでないと買い物が出来なくなっていた。親の借金を返すために身売りせざるを得なくなった少女に30歳をとうに過ぎている我が身を投影し、子供が泣くのを自分の代わりに泣いてくれているのだと思ったりもした。

こんな風にプロテインが原因で想定し得なかった憂き目に遭った私だが、不思議とプロテインを恨むことはしなかった。プロテインにはなんだか不思議な響きがある。第一の栄養という語源があるそうだが、飲み物で言えば…そうだな、そうそう「ミロ」のような神秘的な響きを感じるのだ。私は初めて貰ったパート代で堂々とわざわざ東京の百貨店に行ってザバスではないプロテインを買った。ファースト&ラストのチョイスはグリコのパワープロダクションのチョコレート味3キログラムだ。私はその鯉のエサを彷彿とさせるその大袋をゆっくりとまるで「ミロ」を飲むようにして飲んだ。

 幾星霜を経て、再会の日は訪れた。昨年の夏を過ぎたあたりの日だった。地方支部での調停を終え、私は蛇行する川を跨いだ隣の市にあるゴールドジムに向かった。トレーニングを始めようとするとプロテインバーのところに小さな看板が立てられている。看板には「賞味期限間近 プロテイン200円 グリコパワープロダクション」と書かれてあった。私は懐かしさに小躍りしながらロッカーに小銭を取りに帰った。

「味は何にします?チョコとストロベリーがありますよ」と若いトレーナーが言う。若いトレーナーは襟足が首に溶け込むようにスキンフェードさせたフィジーカー特有の刈り上げをしており、私はその髪型にビルダーとしての純粋な敵意を抱いていた。それは裏返せば憧憬でもある。「そうだな、チョコで頼むよ」と私は勿体ぶってチョコをチョイスした。ゴールドジムのプロテインバーでは何も言わなければプロテインは自然と有脂肪の牛乳で割られることになる。私は若きフィジーカーの所作を眺めながら沈黙に沈黙を重ねた。

どうせだからストロベリーも飲もうと思ったのはパンプすらしなかった肩をサウナで温めて誤魔化した帰りのことだ。私はチェックマスターの影に怯えながらレジを打っていた時は持つことが考えられなかったカウハイド革にブルーサファイアが鋲打たれている長財布から200円を取り出し、2度目の沈黙に耳を傾けた。シェイクされた鴇色のプロテインを受け取り、3口目に差し掛かった時のことだ。「なんか、甘くないっスカ?」と、若いフィジーカーが言った。シーズン終わりたての彼の身体はまだ「オン」のオーラを放っており、恐らく入賞したのだろうという威圧感が語尾のスカに込められている。彼は猛禽類のような目をギラつかせながら私を捕食するようにもう一度ゆっくりと「甘いっスよね?」と言った。東京病に罹患しなかった代謝として得た車のハンドルを持つ私の顔はミツバチの羽音のようなエンジン音をバックに妖艶なアンビエントライトに間接的に照らされている。その地方支部での調停では、倦み疲れたという理由で運動をせずに家に帰ろうとすると外環道の渋滞にハマり却って遠回りになる。私の肩は確かにパンプすらしなかった。もしかして発汗すらしなかったかもしれない。きっと筋肉痛が訪れることもないだろう。が、しかしだ。医学的に筋合成のメカニズムはまだ決して解明されていない。「そう、まだ決して解明されてない」と呟いてみた私は甘い言い訳を探しながら、曲がりなりにもその日を手中に収めようとしていた。

「…なんか、甘くないっスカ?」その矢先、幻聴のようにその言葉が聞こえて反芻を始めた。その反芻はやがて「甘いっスよね?」も絡め含み、輪唱を奏でて行く。入賞しなかったとはいえ夏の間、私はアルコールを抜いた綺麗な身体を維持していたのだ。再会を期したグリコパワープロダクションのチョコレート味はあまりにも甘く、エディプス期に食べたマールボーロを大人になって食べて思っていた以上に甘くなかったのに対をなし、思っていた以上に激烈に甘かった。そして私の身体はその甘味を毒と認識したのかの如く強烈な排泄欲を催すこととなる。インターを抜けるとその欲は更に混迷を極めた。自宅のトイレでの甘い感嘆はもはや期待出来ない。国道を右折した後のコンビニ2軒が勝負になることは確信されていた。手前はファミリーマートでトイレは一つしかない。奥にあるローソンは二つのトイレがある。一つは小水専門だが、万が一の可能性を追うとしたならローソンに行くべきだ。極限状態にあった私はナポレオン・ヒルの黄金律を引用しそう決めた。右手にファミリーマートを過ぎた。信号二つ先にあるローソンを視界がとらえている。そのローソンの店長はネパール人だ。21歳の時にカトマンズに行ったことがあった。私はホテルでマウンテンバイクを借りて洞窟を見に行ったのだった。洞窟の名前はもう思い出せる訳がない。だけど鮮明に覚えていることは、田園の中を流れる小川で少年少女たちが水泳をしていたことだ。川の中からみんながみんな私に手を振った。私が手を振り返したとき、どうして彼らが水遊びをしているのかが分かった。涼しくて気が付かなかったが、あまりにも太陽が近いのだった。私の双腕は焦げて皮が剥がれ始めていた。ホテルの部屋の同じフロアーには女子大学生二人組がいた。彼女たちは私に「ビールでも飲まない?」とドアをノックしたのだ。私は、童貞であったことと双腕が醜く焦げていたことを理由に寝たふりをした。二人組のうちの一人は斜視だったが、薮睨み以外は非のつけどころのないほどの美人だった。私は今でも時折り夢想する。彼女は私の童貞のみならず包茎を許容してくれただろうか、と。

「カトマンズの神殿に処女の王女がいて、幽閉されていた。それを間近で見たんだよ。王女はこっちを見て笑っていた。その王女ってまだいる?」と21歳の時に飲めなかった缶ビールを片手に私は蒼いミルク瓶をカタチ取ったローソンの立て看板の前でネパール人の店長に尋ねた。信号をひとつ過ぎたところで限界を感じて車を止めた。車を降りた私は反対車線の向こう側にある山毛欅の森に吸い込まれて行く。森は太古の昔から待ち構えていたかのように私を受け入れた。限りなく樹木が森然とする深い位置まで斬り込み、ズボンを下げて静かに腰を下ろす。私は一輪に苺を並べたホールケーキにホイップクリームを落とすように排泄を奏でた。すると突然、孤独であったはずの私に対向車線から通り抜けるヘッドライトがその姿を照らした。

「えっ、なんで?ウソでしょ?」バケツで水を掛けられたような逆光が薄らいで行くとともに、目の前に夏の夜に散歩をするカップルの残像が現れ、若い女性がギョウ虫の検査キッドに書かれたポキール君がそのまま少年から大人になったような私の姿を見てそう言った。どうやらより暗い樹枝のあいだや草の茂みには切り込めなかったようだった。暫く私と彼女は目を合わせていたが、男に手を引かれてカップルは居なくなった。男が手を引いた理由が私たちに焼き餅を焼いたことではないことはどうやら間違いがない。

「王女は処女のまま殺されました。王家一族も皆殺しにされた。犯人はまだ見つかってない。」とネパール人の店長は答えた。履いていたパンツは風邪をひかないようにと赤い色をしていたが、赤はそれがどんな赤であったとしても漆黒の闇によって一様に偽装されている。全てが闇によって無色透明となり、夏の終わりを告げる鈴虫だけが耳鳴りのように聞こえていた。私は鈴虫に擬態しながらパンツの色々な部分でそこしかないところを拭いた。家に帰った後に拭き直したものの肉眼では乳白色以外の色は確認することができなかったとき、私はもしかして自分が王女一家を殺した犯人なのかもしれないと思ったのだった。