埼玉県の離婚弁護士 レンジャー五領田法律事務所

スーパー☆(スター)弁護士②

スーパー☆弁護士

 妻が選んだ弁護士はキレキレの弁護士でもなく、細長い自社ビルで本をいっぱい出している東京の家事スペシャリスト集団でもない。この地方都市で未だに法テラス(※2)の配転を受け続けている伝説の女弁護士「海老寺蕾」だった。
 僕は3次元の海老寺蕾を見たことがない。ただ、海老寺一派の急先鋒豊田マッハと一騎討ちしたことがあった。豊田マッハは仁王断ちして僕の反対尋問に異議を出してきた。「先ほど代理人がおっしゃられたフレンドリーペアレントルールって何ですか?」と。牛乳瓶のような眼鏡を掛けた分かりやすい裁判官が「被告代理人は説明してください。」と言う。僕は一通りの説明をした。「高葛藤(※3)の夫婦でも離婚後は父と母として仲良くしなければならないルールです。」と答えたのだ。薔薇は何色ですかの問いかけに薔薇っぽい色ですと答えたようなものだった。豊田マッハは腹式呼吸を一つした後に「そんなものは存在しないよ。」と吐き捨てた。
 尋問後、仄暗い駐車場で豊田マッハは冗談のようにリアに「TOYOTA」と太文字で書いてある逆輸入されたトヨタ製のピックアップ車から出て来て自慢の推定Fカップのホルスタインを揺さぶらせながら、立ち尽くす僕のこめかみ付近に目掛けてこう言った。「私はあんなものは認めていなんだよ。共同親権論者の戯言だかんな。分かったかこのドリチン野郎。」と。控えめに言って、僕は路上で胸を触られた女子高校生の様だったと振り返る。
 その裁判は見事に敗北し、惨めにも控訴審を解任させられた。これは僕の名誉に関与する話だからエクスキューズするが、これはまだ僕がスーパースターになる前の話だ。海老寺一派にとって女性の幸福が全てでそれ以外はない。つまりは女性の幸福に照らすと夫は愚か子供の幸せもどうだって良い。海老寺式フェミニズムは徹底されていた。刺身のツマ、その中でも大葉でも人参ですらなく大根と同等に扱った。

 受任通知には「今後一切のご連絡は当職までお願い致します。」と紋切り型のことが書かれてあった。電話番号は既に連絡帳に記されていた。試しに掛けてみようと思った。「お久しぶりです。修習の時、県庁通りで立ちションベンをして一晩虎箱に入った樽井と申します。覚えているでしょうか?」とでも言って世間話でもしようと思ったが、無機質な事務員が「先生は本日、終日不在です。」と告げた。
 電話を切った後、確かに常習的に立ちションベンをして一度、虎箱にぶち込まれたが、誰にも迷惑など掛けていないことを思い直した。当時の僕は法律家の卵として可罰的違法性の限界に挑戦していた。立ちションベンはあくまでその挑戦の一環であったし、落ちていた一円玉も何も考えずに拾って財布の中に入れて占有即所有と混同を生じさせた。とはいえ僕は自分が思っている以上に当惑しているようだった。当惑に任せて妻に電話を掛けようと思う。大体「今後一切のご連絡は当職までお願い致します。」には何の根拠もない。ある日、定年間際の裁判官に聞いたことがある。和解成立の儀式をする予定だったが、書記官がお腹を壊してトイレからの御帰還待ちだった。定年間際の裁判官は「あれはお願いですよ。こうやってお願いしているのにそうしないのは止めて下さい。」と言うことです。僕は「その法的根拠ってあるのですか?」と尋ねた。定年間際の裁判官は言った。「そうですね。強いて言えば薄い不法行為です。」
 僕は可罰的違法性の限界に挑んだかつての英雄として妻の携帯を鳴らした。幾度か漣(さざなみ)の音がして、その音は季節外れのしけった線香花火のようにふと消えた。暫くすると末尾「0110」の裸番号から電話がある。出てみると近所の警察署からだった。或る伝説があった。海老寺先生は連絡に出ず、痺れを切らして直接本人に電話すると警察から電話がある、と。しかし、それは伝説でも何でもなく、現実に僕の目の前で起ころうとしていた。出てみると「もしもし樽井さんですね。奥様に何の御用でしょう。」と女性の警察官が静かに言った。昔図鑑で見たエーゲ海の辺で佇む裸体の女性の群れが目に浮かんだ。深海魚のように浮き上がって来た幼き記憶を頼りにすれば、女性たちの群れは女性の連帯を象徴するとのことだ。

 子を連れ去られた男がとる方法は家族法上たったの一つしかない。それは3点セットと呼ばれる。子の監護者の指定と子の引き渡しの審判、そしてそれら審判前の仮処分申立てである。最後は満足的仮処分と呼ばれるもので、文字通りその後の審判の行く末の全てを占い、その勝敗が雌雄を分けた。負けたことを忘れて闘い続けたことがある。だが、僕たちは永遠に飛び続ける鳥のようだった。翻ると初めから死んでいた。
 海老原蕾率いる蕾一派が編み出した手法の一つに仮処分期日の無効化がある。その手法を有り体に説明すると、まず指定された期日の直前まで受任事実を明かさず、その直前で受任したこととして期日変更を上申する。その後新たに指定された期日は、不自然な一派内での代理人弁護士の辞任と就任を繰り返すことにより、しこたま期日を後に延ばす。最長にして6ヶ月とも言われている。勿論、代理人制度の悪用だが、そもそも制度とは不合理の糸がタペストリーのように織り込まれているものだ。そうこうしている間に監護体制を盤石にして、家裁の調査官が入った後にはもはや後の祭り状態だ。「えっ、お父さんって、誰?」って具合に。だから、たとえスーパースター弁護士である僕がその輝かしい研鑽をバックグラウンドにして我が子を取り返す手続きを取ったところで、出来上がるのは父を忘れた子と廃人となったお父さんである。でも僕はやがてこの状況にもさえ慣れるだろう。まるで僕がスーパースターになったように…。
 とはいえ、僕は自分の息子の居場所を知っていた。それは夕暮れの小学校の校庭の隅だ。彼は決まった時間にそこで雲梯を上下運動する。僕の長男は小学6年生だが、その知能と同様に上腕三頭筋が異様に発達していた。長男は受験勉強しかしていない。なのに、上腕三頭筋はそれ自身がまるで意志を持っているかのように、クワガタに喩えることが許されるなら深山クワガタの上顎のように発達している。そして、彼はその発達した上腕三頭筋を恥じらいでいた。夏でもダボついた服を着てそれを胡麻化していたが、長男の上腕三頭筋はそれ自身が意思を持つように自己主張する。妻はその恥じらいの謂れを知らなかったが、僕は知っていた。

※2 法テラス=法律トラブルを抱える人のために様々な無料サービスを行っている、国が設立した「日本司法支援センター」の通称。
※3 高葛藤=離婚に至るまで揉めるような険悪な夫婦関係のこと