新しい店長が赴任してきたその夜、美帆は林に電話した。
〔林さんですか?高原です〕
〔ああ、おつかれさまです。新しい店長はどんな感じでした?〕
〔柳沢店長は林さんの言っていた通り、元気で明るい人ですね〕
〔僕は柳沢君が入社した頃から知ってますけど、真面目でとてもいい人ですよ。お店にもすぐに馴染むと思います。で、今日はどんな用件ですか?〕
〔用件がないと電話しちゃダメですか?〕
〔え?そんなことはないですけど…僕はともかく、高原さんが人から誤解されるようなことがあってはいけないですから〕
〔そんなのもうお店も違うんだし、私と林さんが黙っていれば誰にもわからないことじゃないですか〕
〔まあ、そうですけど、やっぱり…〕
〔私、林さんがいなくて寂しいです…〕
それからふたりは時々会うようになり、最初はお茶や食事だけだったのが、何度目かのデートから深い関係になったそうだ。真一は美帆の話に嘘はないと感じた。
「結局、林も美帆と深い関係になるのを拒まなかったということだろ?」
「真ちゃん覚えてる?前に小百合が学校でいじめに遭ってるって相談したこと」
「覚えてるよ。あの時、俺は猛烈に仕事が忙しくてあんまり話を聞いてあげられなかった」
「そう。あの時、私はすごく心細かった。担任の先生は、小百合をしばらく休ませるように言ったんだけど私は腑に落ちなかったの。林さんに話したら『いじめた子は学校で楽しく過ごしてるのに、被害者である小百合ちゃんが学校に行けないなんておかしい』って、先生に手紙を書いてくれたの。それでしばらくの間、いじめた子が別室での個人指導になって、小百合は普通に学校に行けたの。真ちゃんを責めるつもりはないけど、その時、真ちゃんは私の話をちゃんと聞いてくれなかった」
「…そうだね、ごめん。あの時は仕方なかったんだよ」
「心細くて、さみしくて、一回だけでいいから慰めてほしいって林さんに言ったの」
「で、一回じゃ済まなくなったわけだ?」
「そう。私がね」
「どういう意味だ?」
「ねえ、私たち結婚前も含めるとこれまで何年付き合ってる?」
「14年ほどになるね」
「その間いっぱいエッチしたけど…」
「したけど?」
「真ちゃんは私が潮を吹くってこと知らないよね?」
美帆の衝撃的な告白に真一は節句した。
「話を続けてもいいかな?」
真一の頭の中は真っ白になり、体も震えてきた。正直そんな話は聞きたくもないけれど聞かないわけにもいかない。
「ああ…続けていい」
「林さんは特別アレが大きいとか、経験が豊富とか、エッチがすごく上手ってことでもないと思う。ただ、すごく優しくてじっくりしてくれるの。そして最初に林さんに抱かれた時、私、潮を吹いたの。そんなの初めての経験で私もびっくりした。すごく気持ち良くて何度もいったの。今まで知らなかった世界を知った感じだった」
真一は自分自身の男としてのプライドがガラガラ崩れる音が聞こえたような気がした。
「真ちゃんとのエッチももちろん気持ち良かったし、セックスってこんなものなんだろうと思ってた。私は真ちゃんと出会う前もそんなに多くの男の人を知っているわけではなかったし、まさかあんなに深い快感があるなんて今まで知らなかった。女に生まれて良かったって初めて思ったの。真ちゃんには酷な話だろうけどそれが事実」
真一はまるで自分がヘビー級のボクサーにコーナーに追い詰められてパンチの連打をくらっているような感覚を覚えた。
「だから林さんとホテルに行くとクタクタになる。何度も何度も…」
「もういい!」
「ごめんなさい…」
「で、林なしではいられない体になってしまったというわけか?」
「…」
美帆は無言のまま答えない。図星なんだろう。
「美帆は自分の浮気を俺に公認しろとでも言いたいのか?全く馬鹿げてる。そんなことできるわけがないだろ!」
「そうだよね…」
「別れると約束できないのなら離婚するか?」
そう言ってはみたものの、今の真一の本心ではない。それは美帆にも見透かされていたかもしれない。
「真ちゃんはとてもいい旦那様。今でも大好きだし、頼りにしてる。小百合もかわいい。今、私はこの生活に満足しているの。幸せなの。絶対失いたくない。でもこの年になって初めて知った女の喜びも捨てたくない。じゃあどうしたいのか?って聞かれても答えられないけど、これが私の正直な気持ち。真ちゃんはもうこんな私とは離婚したい?」
真一は困惑した。真一自身も答えを持っていないのだ。美帆は元々控えめな性格で、自分を強く主張するタイプではない。それが原因で損をすることも度々あっただろう。そんな美帆にこんなことを言わせてしまう林に真一は嫉妬した。
「勝手なことを言うな!」
返答に窮した真一は席を立ち、その場から立ち去ろうとしたところを美帆が呼び止めた。
「林さんとのことは死ぬまで隠し通すつもりだった。だからそれ以外のことは全部ちゃんとやってきたつもりだし、それなりに努力もしてる」
「美帆がいつもがんばってるのは俺も知ってるよ。でもそれとこれは別の話だ」
「そうね。今、私ひとつだけ決めたことがある」
「何?」
美帆は真一の目をまっすぐに見つめて言った。
「もしも真ちゃんが林さんに何かしたら離婚します。それから、林さんは毎月10万円別れた奥さんに娘さんの養育費を送っているのでお金は持ってないから」
「それは小百合のことも考えて本気で言っているんだろうな?」
「はい…。ごめんなさい」
真一は何も答えず、逃げるように書斎にこもった。
どうしたらいいかわからず途方に暮れている真一に対して、美帆はきっぱりと覚悟を決めたようだ。おまけに、林に知らせたら離婚する、そして林に慰謝料の請求もしてくれるなと釘まで刺してきたわけだ。以前の美帆だったらこんな図々しいことは決して主張しなかっただろう。真一は美帆にとって林の存在がいかに大きなものなのか改めて痛感した。
ひとりの男として、美帆の夫として、小百合の父親として、今自分が進むべき道はどこなのか。そんな大事なことも見つけられないでいる自分が情けなく、恥ずかしかった。
ただ、そんな真一もひとつ決めたことがある。それは林に対して真一が何らかの形で罰を与えたり復讐しようするのはやめておこうということ。憎くてたまらない相手ではあるけれどそれはしない。だってそんなことをする自分はあまりにもみじめすぎるから。
偶然のこととはいえ、開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったことを真一は後悔していた。もしもあの時、美帆のスマホの音が鳴らなかったら、そしてあの雨の日に美帆を尾行をしていなかったら、真一がこんなに苦しむことはなかっただろう。たとえそれが偽りの幸せであったとしても、今の苦しみよりはずっとマシ、いや、知らないのだから幸せなまま日々を過ごしていたに違いない。特に娘の小百合のことを考えると、間違いなく知らない方が幸せだったと言えるだろう。
翌日になっても、3日経っても、1週間経っても真一に答えは見つからなかった。結局、美帆の要求は、今の生活は変わらず続けながら、自分の浮気には目をつぶってほしいというあまりにも身勝手なものだが、真一はそれを一方的に美帆のエゴだと退けきれなかった。それは、自分がもっともっと美帆をひとりの女性として愛してあげていたら、きっとこんなことにはならなかっただろうと思うから。
そして林に対しても憎くてたまらない気持ちの一方で、男としての負けを認めざるを得ないところも感じていた。だからこそ、勝てなかった相手に遠くから石を投げるようなみじめな卑怯者だけにはなりたくなかったのだ。