中二階の踊り場のような場所には窓も扉すらない。半円形の小さなスペースにビックジョーと呼ばれる筋肉のオブジェがバッドマンの蝙蝠さながらにスポットライトを浴びている。ビッグジョーのためだけのスペースにビッグジョーだけが佇んでいる。笑っているのか哀しんでいるのか分からない表情でビッグジョーは踵をピッタリとつけて正体し、両端にたんまりとプレートをつけたショートバーを枝垂れ桜のように湾曲させていた。カップルでトレーニングに来ているトレーニーは神聖なGジムを愚弄していている。公然猥褻罪が適用されてもおかしくない。局部を触っていないだけでなんやかんやどう見てもペッティングをしている。問題はトレーニングの後に本番のセックスをするかどうかだ。セックスするか、しないか。トレーニング後の有酸素運動だと位置付けてセックスした後にはじめてプロテインを飲むのだとしたら、絶対に通報してやる。そう思いながら私は、その日も肩を鍛えるべく座ったまま頭の後ろでバーベルを上げ下げするショルダープレス台の椅子にぼんやりと腰掛けていた。金曜日はミスター大沼がいる。とんでもないことになるからと金曜日は須くわざわざ遠いGジムに行った。私はその日が金曜日だとは夢にも思っていなかった。
「オイ外し過ぎだ。さっき9回が出来て、どうして5キロ外す。合わせて10キロじゃねぇか。それじゃ20回出来ちまうよ。甘いなぁ。10回ギリギリ出来る重さだよ。だから2.5と1.25でキザむんだ」振り返るとミスター大沼が背後に立っている。その日が金曜日であることに気づいたのはそのダミ声を聞いた直後であった。ボディビル界隈では「キザむ」とは錘をちょっとだけ減らしたり増やしたりすることをいう。さらにいうとボディビルは「ボ」と略されたりもする。ミスター大沼はかつての絶対的な日本チャンピオンで生きる「ボ」のレジェンドだ。他の歴代チャンピオンが柔和な表情に戻る中、ミスター大沼は明日が大会であるかのような縦皺を顔に走らせ、鋭い眼光で私をなじった。私は二等陸士のようにショルダープレス台の周りをちょこまかと動き廻り、50キロからわずか2.5キロだけ減らしたバーベルの下に潜り込んでバックプレスを始めた。ミスター大沼は5回を過ぎると檄を飛ばし始める。途中でやめるという選択肢は与えられておらず、血の気が引いていくのを周辺視でぼんやりと確かめるのみであった。
ベトナム戦争でベトコンの捕虜になりロシアンルーレットをさせられたアメリカ軍の兵士が命からがら脱出した後、自由の身になりながらも戦後の現地でロシアンルーレットによって命を落とした話をどこかの隊員クラブで聞いた。それは恐らく呪いだ。私もそのようにして呪われているのだと思っていた。自衛隊を除隊しても、誰に頼まれた訳でもなく錘を上げ下げすることに意味を見出すとすれば、呪われていることしかない。そう考えていた。いつしかその呪いは解けたのか、もともと呪われていなかったのか、何も思わなくなっていた。
「今年はどうすんだ?」とミスター大沼は言った。「今年も埼玉に出ようと思います。」と答える。埼玉とは埼玉県「ボ」選手権のことだ。「減量は?」「今月からです。」「今月?今月ならあと5日で終わる」「あ、すみません。来月からです。」と答えたが、来月から減量を始めるかどうか自信が持てなかった。まだ寝る前にビールを飲んでいた。私の顧客の殆どは酒か抗精神薬を飲んでいる。一蓮托生を謳う私が何も飲まないで健康に寝るのはどことなく執拗に憚られた。これは決して詭弁ではない。そんな詭弁を見透かしたのかミスター大沼は「おかしな奴だな」と言いながらガッハハと笑った。
「前はよくポージング来ていたな。身体、前の方が良かったじゃないか?どうして悪くなる。おかしいじゃねぇか。怪我でもしてんのか?」「いえ、してないです」と私は答えた。怪我は治っていた。実際に怪我をしていなければ、戦闘部隊からの除隊は難しかっただろう。すぐにやって来る演習、空挺降下からの降着地戦闘、延々と続く行軍、陣地を構築して突撃するか突撃されて状況が終了する。そしてその次の演習は驚くほどすぐにやって来た。精強が縦横に重なって出来た十字架を背負わされる第一線部隊において、精神がもたなくなった戦士は徹底的に精神を壊されてから表にほっぽり出される。先に肉体が壊れてくれたおかげで私は今こうやって塀の外で息を吸っている。ちょっとした帰還兵だ。
「だったらおかしいだろって。ほら、次は何するんだ」と言われた私はサイドレイズをしようと思ったが「サイドレイズ」が酸欠で出て来ず、腕をペンギンのようにバタバタさせた。「サイドレイズだな。やれ」とミスター大沼は言った。2セット目が終わったところで休憩の時間がやって来たのかタオルを肩に掛け「効いただろ」という言葉を置いて悠々とバックヤードの暗闇に消えていった。
中二階のビッグジョーが、きらりと光った。堂々と3セット目を終え、冷や汗を掻き切った私にビッグジョーが微笑みかけたのかと思った。しかし、それは表が夕暮れて照明が灯されただけだった。これから夜の帳が降りると、ガラリとトレーニーたちの種族が変わる。ミスター大沼のポージング教室が午後8時半に始まるからだ。私の金曜日が終わり、彼らの金曜日がやって来る。腫れた三角筋には鈍い痺れが宿っていた。明日は嵐になるだろうという同じ文脈で私は筋肉痛到来の予感をひしひしと感じた。それは膨れ上がる幸福の予感と言い換えても良い。もしかして、自分が今夜はビールを飲まず大人しく寝るのではないかとも思った。少なくともプロテインを飲む前に妻とセックスをしないことは確かだった。