世紀の一戦なのにも関わらずプロレスの試合を選んだ私にチルディッシュな部分を見い出したと言われそうだが、その誹りは甘受する。私は寸分も違わずこの試合を選んだ。1995年10月9日東京ドーム戦はプロレスファンには10.9と略され、語り尽くされることなく数多の感動と興奮が脈々と語り継がれているのは多言を要しないだろう。当時、私は二十歳だった。そして、自ら吸い込む空気の確かさを信じようとするが余りに迷い込んだ青春の袋小路を身の丈に合わない哲学の勉強により余計に息苦しくさせていた。誰かとプロレスの話をすることはなくSNSもなかった時代である。私がプロレスを見始めた頃もうすでに高田はUWFに移籍しておりTVプロレスの舞台にはいなかった。学校でUWFの話をする奴は居なくは無かったもののUWFの試合を観るためには月に一本配信されるVHFのビデオテープを買わなければならない。そこまでのコアなファンは私の周りにはいなかった。UWFの戦士たちは外界との通路がもっぱらブラウン管に限られていた私たちにとって、かつて戦場で活躍した若きチェゲバラのように、既に歴史上のファイターとして封印されていた。だから私が高田という時、チェゲバラを「チェ」と呼ぶのと同じような気高い余韻が私の周辺に漂う。私は高田が勝つと思っていた。10.9はそれまで何の記念日でもない。メインの高田武藤戦のためだけにに東京ドームが押さえられた日であった。テレビの生中継はなく、リアルタイムで観たければ人知れず来日したガンズアンドローゼズのコンサートのように直接会場に行かなくてはならなかった。私は土曜深夜のテレビ中継を静かに待っていた。私は2回時の進級単位がギリギリだったのもあり、必修以外は哲学の講義に全ての単位を振り替え毎晩閉館まで大学の図書館にいた。帰りの電車は座席から出る暖気にも耐えられないほど目が乾いていたが、私は自分を戒めるように全く理解出来ない哲学書を読んでいた。酔ったサラリーマンが私も君のような青年だったと言いながら、私に革製のブックカヴァを読み掛けの文庫から剥がして差し出した。私はそれを受け取ったが、思い出したようにターミナル駅のゴミ箱に捨てる。そして「そういえば昨日が10月9日だったな。」と思った矢先、駅の売店で片脚を上げながら豆鉄砲を喰らった鳩のような表情を浮かべる高田を見たのである。他方で、私は武藤が好きだった。あの頃の写真を見ると、よく武藤のマネをしていた。写真以外でも武藤のマネをした。武藤のフラッシュローリングエルボーを何度もスローで見て、布団や時には弟を敷いてやってみせた。たが、それは舌足らずの童謡のようにいつも私に儚さを感じさせた。その都度、私は武藤は天才だと感じた。だが同時に、二十歳の私は武藤がメインに選ばれたのは闘魂三銃士の中で一番弱かったからだと思っていた。武藤は天才だが、武藤が強いなんて思わなかった。誰もそう思っていなかったと思う。まだ髪があり、憂いを含んだ表情をしながら小気味いい動きをする武藤は底知れない魅力があったが、強いと思ったことは一度もない。そこが武藤の天才たる所以であろう。そして、とうとう土曜深夜がやって来た。試合は高田の蹴りをキャッチしてドラゴンスクリューに持って行った武藤が足四の字固めで高田からギブアップ勝ちを奪うという衝撃的な結末に終わった。日本国民全員が信じていた「最強高田」はその瞬間、高田自らの故郷であるプロレスリングにより葬り去られた。負けた方が必ず衰退する団体の興廃を賭けた試合は第1戦に全てが集約されていた。第2戦で高田が星を取り返したが、全ては第1戦で完了していた。今でこそドラゴンスクリューからの足四の字は市民権を得ているが、その頃は使い手がデストロイヤーか藤波辰巳であり、分かりやすく言えばアームホイップからのキーロックでギブアップしたというような極めて屈辱的な敗戦だった。私はこの世紀の一戦を振り返るにつけ、もう一部始終を思い出すことは出来そうにない。私がありありと記憶しているのは、ターミナル駅の売店で見た片脚を上げて鳩が豆鉄砲を喰らったような表情を浮かべた伝説の戦士とそれを見ている私である。既に終わってしまった世紀の一戦を心待ちにしていた二十歳の私を懐かしく思う。そして少しばかり切なくなる。