妻が私に性的に熱中していた時代があったかどうか分からない。証人は誰一人として残されておらず、砂鉄のように数多の未公開フィルムの一景として、記憶のどこかに残されている。少なくとも、確信していることが一つあって控えめな表現すると、妻は私の小水を眺めるのが好きだった。初春のビアガーデンには夏を待ちきれないと言った風にオフィスから持ち込んだ疲れをバルサンのように発散しようとする人たちで犇めきあっている。60歳前後の漆黒の男と孫ほども歳の離れた商売女がヒソヒソ話をしながらバーベキューの肉を焼いていた。牛舎の自働餌やり機のように等間隔に並べられたビアジョッキの連なりが遠目にみえる窓際の席で、緩くなってしまったビアジョッキを握りしめながら私は昨夜の光景を思い返した。
「あなたといると、自分が消えてしまいそうになるの。」
穏やかで、いつも柔らかい笑顔を浮かべていた妻が、その時だけは全く別人のようだった。その声には決断めいたものが滲んでいた。
「先輩、失恋と離婚って何が違うのですかね?」と隣の席から突然、北村が言った。
「子どもがいなかったら同じじゃないか」と浅い追憶から目覚めた私がそう答えた。「子どもがいない離婚は、ただ形式的に終わるだけだ。」
「本当にそれだけで終わるんですか?」そう言って北村は続けた。「最近、AIの彼女にフラれたんです。いえ言われなくても、分かっています。AIの彼女にフラれた話なんて誰も聞いてはくれない。でもボクが離婚したんですって言ったらどうです?先輩はその話を聞くんじゃないですか?」
「どっちでも聞くさ。いやいや、そうじゃなくて。そもそもなんだけど、AIの彼女にフラれるとかあるのか?だって全てを肯定してくれるはずだろ、AIって。」
「はい、そうでした。実際にフラれるまでは」
「じゃあ単に課金し忘れたとかじゃ?」
「毎月の課金はしていましたよ。でも…」
「でも何?」
「結納を迫られたんです。」
「いくら?」
「300万円です」
シャツの中でなにか虫のようなものがのたうち回って袖口から飛んで出て来たような気がした。北村の言葉を受け流そうとしたが、新しい虫が生まれそうで憚られた。気の利いたことを言おうとした。何かとっておきのウィットの効いた何かを。だけど私は、何も言えなかった。
「先輩みたいに結婚してる人っていいですよね。僕からすれば勝ち組です。」
「勝ち組か…」と私は言う。「結婚してれば、誰もが幸せだと思うか?」
自ら放った言葉が恐ろしいカーブを描いて私の心をえぐり浅い追憶が蘇えらせた。私は昨晩妻に「消えてしまいそうになる」と言われたのだ。それは婚姻者にとって死刑を求刑されるようなフレーズだ。
「昨夜、妻が消えてしまいそうになると言った」と小さく告げた。「おそらく、形式的に別れることになると思う。」
北村の顔から表情が消えた。彼はカップを置き、慎重に言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「奥さんが言ったこと、僕には想像できない世界です。けど、消えるっていうのは、怖いですね。」
私は黙ったまま彼の言葉を反芻する。消えることへの恐怖。それは妻だけのものだったのだろうか? いや、私自身もまた、結婚生活の中でちょっとずつ自分を消し続けていたのかもしれない。
「先輩、僕ね。中学の時に初恋の人に告白されたことがあるんです。好きだって言われて。でも、その時、僕は笑ってごまかしたんです。本当は怖かったんです。イエスといえば、それ以前の自分は消えてなくなってしまうんじゃないかって。」
彼の言葉に、私は返事をすることができなかった。もうその気力がなくなりかけていた。
「さっきの話の続きなんですが、払ったんですよ」
「何を?」と殻になったジョッキをもって腰を上げかけた私が言った。その答えは透明なビニールに入れられている金魚のように揺らめいていた。
「結納です。300万円、払ったんです。それでフラれました。好きな人が出来ましたって言うんです。」
その300万円がどうなったか聞こうとした。それは明らかに愚問の類に入るいわば暴言だった。
「俺も300万だったな。」
「えっ?」
「結納だよ。親父が奮発してさ、半返しも要らないって。無駄になっちゃうだろうな、せっかくの300万。よし、もう行こう。そうだ、2軒目に行く前にいいもの見せてやるよ」
「何ですか、いいものって?」
「決まってんだろ?おしっこだよ」
下らない冗談はやめてくださいと言って北村はトイレに着いて来なかった。私はよく清掃された小便器の前にたち、萎びた性器をそれに向けた。背後に気配を感じ、ふと妻が私の小水の気配を感じて見に来たのかも知れないと思って後ろ振り向いた。案の定、まだシーズンとは言えないビアガーデンのトイレには誰もいなかった。もはやそれ以外の機能をもたなくなったそれから、ちょろちょろとした小水が勢いなく小便器に向かって放たれて行った。