「いいセックスはいい」という性諺がある。ジャパンプロレス時代の長州力とジャンボ鶴田60分フルタイムドローを彷彿させるセピア色に染められた夫婦の交わりは、時間の観念を超越して「いいセックス」と評価せざるを得ず、先の性諺からすれば必然的に「いい」という結論が導かれる。セックスは令和の時代で唯一夫が妻に対して認められる「暴力」と見ることは何とも言えない愉快さがある。ベッドをリングと見立て、場外に出されてリビングやベランダでそれぞれひと悶着ずつし、またもやベッドに戻ってきてフィニッシュするかと思いきやカウント2.9で跳ね除けて両者苦悶の表情を浮かべるなんていう一連のシークエンスは端から見れば「暴力」と看做されても不思議はない。唯一違うのはそこに信頼関係があるか否かの問題であり、それがなければたとえ鳩がついばむようなセックスであるとしても純然とした「暴力」となる。昭和の時代によく勝手知った顔で「夫婦ってね、減点方式なのよ」と言われて来た。仮にその俗諺がアクティベイトされていると仮定していつの間にか減ぜられてしまった持ち点を一気に挽回させる起爆力がセックスにはある。いや、男たちはそう信じている。これを「セックスの神話」と呼ぶことにする。そのようなセックスの神話から零れ落ちる神通力が無くなった夫婦がみる世界は一体どのようなものであろう。試合が組まれれば60分フルタイムの半分ならば闘いぬく覚悟も体力もあるにも関わらず、中々マッチングされずに気付けば5年が経とうとしているような夫婦を世界平和のように想像してみる。それは言ってしまえば、夫婦関係の死と呼んで差し支えない。セックスレスは死に至る病である。不貞だってセックスが脈々と活きている内に起こるのと、それが途絶えてから起こるのでは走る衝撃がまるで違うだろう。不貞の多くはセックスが消滅した以降に発生すると考えるのが自然だ。発生のみならず発覚すれば、夫婦関係は水が高いところから低いところに流れ込むように破綻に突き進む。5年別居が続けば離婚出来るという判例法理に準えて5年セックスレスが続けば離婚原因となると考える人は多い。これを「セックスレスの神話」と呼ぶことにする。もちろん夫婦の年齢や健康状態にもよる。1ヶ月レスが続いただけでセックスレスというのは違和感があるし、織姫と彦星のように一年に一回結ばれるのであってもそれが「いい」ものであれば、それは夫婦の性生活の形であってとてもセックスレスと呼ぶことは出来ない。ただ何ら際立った事情もないのに子供が産まれたからというだけで2年も3年もセックスがないというのは紛れもないセックスレスであって離婚原因の是非が議論される前に、夫婦の肉体的共同体側面は形骸している事実は疑いようがない。子供の寝静まったリビングで緑色の字が印字された薄い紙を突きつけられ「私たちもうとっくに終わってたじゃない」と諭される時、そういえばいつの日から「今度オナニーしたら自殺する」って言われなくなったなぁと思ったとして「もう一生オナニーしませんからやり直そう」とその男は言うだろうか?そう言ったのだとしたら彼は「セックスの神話」の猛烈な信者である。「最後に何か言っておきたいことはある?」と聞かれ「言いたいことはない。だが、言って欲しいことならある」「いいわよ、何?」と妻は言い、私はゆっくりと口を開いた。「今度オナニーしたら自殺するって言ってくれ」みたいなやり取りはエモい。エモ過ぎて、エモ死しそうである。「今度イケナイことしない?」にした方がいいだろう。