埼玉県の離婚弁護士 レンジャー五領田法律事務所

男たちの映画①〜「チャンプ」

映画1979年版「チャンプ」はシングルファーザー映画の金字塔「クレイマー・クレイマー」同じ年に公開されている。双方アメリカで離婚が社会問題化されたことに端を発した映画である。今でいう魔法学校で少年たちが活躍する映画と同じくかつては年中行事のようにゴールデンタイムのロードショーで放映されていた。後者はもちろんのこと前者「チャンプ」も、クライマックスのボクシングの試合で父親が死ぬという以外かつての少年たちにとって格段の記憶は残っていないはずだ。1979年版は1931年版「チャンプ」のリメイクであり、1931年版はアカデミー賞を、1979年版はゴールデングローブ賞を受賞している。双方を見比べると時代の移ろいは歴然であるも、父親がどれだけ泣いたかという実験を仮にしたとすれば1931年版に軍配があがる。1979年版は確かに父親が主人公である映画であることは間違いないものの、当時趨勢を極めたウーマンリブに挨拶していることが如実であって、母親の感涙にも耐えうるシナリオに書き換えられている。必然的にその都度、父親たちの涙腺は乾く。1931年版は飲んだくれの元ボクサーと父を崇拝する子の共同生活が延々と描写されるのと対照的に、1979年版は大女優フェイ・ダナウェイが成長した8歳の我が子を見つけサングラスを外すシーンから始まる。1931年版の母親は裕福な男と再婚して金持ちになった元妻というストーリーのアンチテーゼを定立するガジェットとしての役割であるが、1979年版は夢を追って成功したがやはり自身が母であることを再認識する女性の懊悩が木目細やかに表現されている。とはいえ物語の主軸に変わりはない。父親は金欠に陥り、息子が大切にしていた馬を売り払う。自信を喪った父親は、子を母親の元に譲り渡す。悲嘆に暮れる父親が母親から逃げてきた子と再会するシーンは何度見たとしても絶対に誰かとは見ない方が良い。「一人の父親という以前に一人の男として」という使い古された枕詞はこの映画に限っては親和しない。一人の父親として無謀とも言える復帰のリングに挑んだ男の結末はいうまでもなく「死」であるも、殊に息子の記憶の中には永遠の英雄として生き続けるはずだ。

英雄は死に凡父は生き残る。一度は子を捨てた罪悪感からではなく、駄目になった元夫を決して悪く言わない母親の凛とした倫理観は未だ父権が強いアメリカならではであって、現代の日本にはない。「お父さんにそんな口の聞き方をするものじゃないよ」と子を嗜める大和撫子を探すためには、戦前まで遡らなければならないだろう。我々はそういった凡父として生き残らなければならない時代に生きている。しかし映画「チャンプ」のように、身を賭してでも自らの子に何かを伝えたいと思う瞬間が絶対にない訳ではない。そう信じているのだ。