責任だけが肥大し、男の尊厳や自負が剥奪されゆく現代。大方はそういうものだと諦めるが、他方で一矢報いようと頭を擡げる男もいる。そんな男達にインタビューするシリーズの第1弾。
仮名K、29歳、職業は地方検事。その男にどんなやり方で一矢を報いたのかを訊いた。
―結婚は早かったです。法学部のゼミで知り合った同級生と検事任官後に結婚しました。私は在学中に司法試験に合格しました。彼女も一応は目指してはいたんですが、メガバンクから内定を貰って就職しました。結婚式は豪勢でしたよ。検事正と銀行の頭取が隣同士で座ってましたから。
順風満帆に見えるKの人生。しかしラッキーゴーハッピーに見える人間ほど内情は疲弊しているものだ。
―ええ、悔しいですがご指摘の通りです。私のような人間は結婚生活で最初に躓くものです。子供を二人授かった後、妻が全くセックスをさせてくれなくなったんです。オーラルでしてくれたりもしていたんですが、妖怪みたいに夜な夜な歯を磨くんです。私の方が気後れしてしまって仕舞いにはスキンシップ自体がなくなりました。
―誰にも相談は出来ませんでした。自分が悩んでいるということを認めたくなかったのかも知れません。そういうものかと諦めかけたときに準強姦で挙がって来た自称ナンパ教室塾長の取調べを担当したんです。その男の話を聞いているうちに一つの疑惑が頭を過ぎりました。
―妻は処女ではありませんでした。それとなく聞いたことがあります。法律サークルの新歓コンパで商社マンになったOBに誘われてホテルに行ったと素っ気なく言われました。ショックだった。暫くは忘れていましたが、彼の話を聞いた後で再びそのショックを振り返ってみて、ふと思ったんです。思ってしまったという方がいいでしょうね。私は童貞だったが、いまは童貞ではない。なのにどうして一度も処女を抱いたことがないんだろう。こんなのまるで不公平じゃないかって…。
みなが処女と童貞として産まれて来る。しかし、確かに男が処女に出会うことは限りなく少ない。女達がどこか見知らぬところで禊を経てくるかのようだ。
―彼は取り調べの最中、私にこう言いました。「処女なら100人以上斬りましたよ。ええ、検事さんの分もね。」彼は冗談ですよと笑って見せたが、目は笑っていませんでした。私が侮辱されたことは明らかでした。
世の中は平等ではないことは少年時代に須らく理解される。他方で、世の中にはひょんなことで不平等を感じる人間がいることも確かなことだ。そう思いながら、俺は目の前の男が大事そうに抱えているグラスにウィスキーを注いだ。
―私は塾長から聞いたテクニックを実践で試して行きました。裁判所には裁判所のルールがあるように街には街のルールがある。質問をされたら質問で返す。女性が話し始めたら相槌に専念する。彼が言っていたことはシンプルですが、私が家庭生活で殆ど出来ていないことばかりでした。数多の実践を繰り返すにつれ、次第に女性との会話も弾むようになり、ポイントも稼げるようになって来ました。
ポイントとは?と問われてKは何か今まで周りに秘していたものを俺だけに明かすようにゆっくりと「セックスですよ。」と言った。俺は核心を突きたいという衝動のようなものに駆られた。
それで処女には出会えましたか?
―処女というとお下げ髪で眼鏡を掛けていてというイメージがありましたが、私が出会った処女は青年誌のグラビアに出て来てもおかしくない美少女でした。ただ、目の前の処女がブスか美少女かなんて正直どうでも良かったような気がします。
でも、その少女は本当に処女だったのだろうか。そもそも処女か処女じゃないのか一体どうやって分かるのか。いつの間にか俺も童心に返ってしまっていた。
―見た目で分かるほど熟練が積めていた訳ではありません。ただ膣壁の突起の感じで分かりました。まるで違うんです。あぁ処女だって。ここが私の真珠湾だって。
真珠湾という言葉に不思議と違和感を抱かなかった。咄嗟に目に浮かんだのは、見た事がある筈のない情景。祖国の興廃を賭けたあの奇襲作戦に、母艦を飛び立った零戦が、まだ遥か朝焼けの映えて残っている空の上から忍びより、ついに雲の切れ目から覗いた藍碧の真珠湾とその水の上に浮かんだ敵艦隊の姿。
―瞬間にして天命を感じました。ここが私の真珠湾だって。そう思わせてくれたのは他の誰でもない私の妻だったのかも知れません。攻撃の命令がかかりました。そのときですね。まだ魚雷を発射せず、艦隊に向かって突っ込もうと操縦桿を倒そうとしたとき一度死んで生き返ったような気がしたんです。本当にそう感じたんです。幸せだった。とにかく体が痺れるくらい幸せだと思いました。突っ込んで行きながら私は抱いた魚雷が間違いなく命中することを疑いもしませんでした。数を数え肉薄して魚雷を放してそいつが真っ白い航跡を上げて突っ走るのを感じながら終わったと思った。魚雷は命中しましたよ。しかしね、その感激はもう当たり前のことにしか感じられなかった。喝采は叫んでいたけど、後で考えてみるとあの真珠湾を見たとき。あの瞬間、私は一度死んだんです。本当にもうこれで何も欲しいものはない。完全に満足だと思った。何というんだろう。とにかく綺麗だったなあ。そしてあの一瞬だけ私はもの凄い勢いで生きていましたよ。
俺は何かを呟きながら何ともつまらない台詞だと思った。だが全ての男が息を飲む話を正にいま聞いているという確かな感触が自己嫌悪を上回った。
―その後、私は一度も街で声を掛けることはしてません。そして平凡な日常が始まりましたが、その日常を退屈だとは思わないようになりました。働いて家に帰って来て、子供達の世話をする。妻は相変わらずですが、料理と洗濯はしてくれる。今は何の不満もありません。
俺はKに真珠湾のことを思い出すかと訊こうとしたがすぐさま口を噤んだ。あまりにも愚問だと思ったし、もう自己嫌悪は懲り懲りだった。女は女で生まれてくるが男は男にならなくてはならない。俺は果たしていつ男になったんだろう。うすら寒さを糊塗するようにKが立ち去った部屋でウィスキーを煽りながら俺はもう一度だけ真珠湾を思い浮かべようとした。