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女を寝取られた男たち〜映画「アナザーラウンド」

マッツの愛称で知られる北欧デンマークの至宝マッツ・ミケルセンが主演を努めるこの映画、題名のアナザーラウンドとは酒場の隠語で「お代わり」という意味だ。デンマークでは最近まで16歳から飲酒が解禁されていた。映画の冒頭ではハイスクールの行事で酒を飲みながら湖を一周するゲームが催されている。飲酒を始めるのが早ければ早いほどアルコール依存症になる確率が高くなると言われる。「デンマークはアル中しかいないわ。」としがない高校教師を演じるマッツの妻は叫んだ。素面であることに興味があるというシニックな名称で一大勢力となったソーバーキュリアスはコロナ禍の日本でも猛威を振るいコンビニエンスストアからレモンとグレープフルーツ以外の味のストロングゼロを駆逐して凱歌を叫んでいるように見える。しかしアルコールを辞めてみれば分かることだが、人生はそれほどシンプルではない。アルコールを辞めるのは自嘲を込めて白米を食べるのを辞めたボディビルダーのような側面がある。アルコールのない太陽の世界、小中学生だったの時の人生が遡って正真正銘に素晴らしいものであっただろうか?そんな訳がない。それぞれの世界にいみじくも地獄は存在するのだ。

50歳を過ぎた高校教師である彼らはある実験を行う。それは血中アルコール濃度を0.05%程度に保った方が人間は調子がいいという医学的根拠を元にアルコールを入れながらそれぞれの授業をしてみるというもの。おそらくその医学的根拠はデマカセである。ただ、近年の健康ブームで「お尻を洗うのは辞めなさい」などの類の本が実しやかに出版されていることからすれば、医学的根拠はないとは言い切れない。これは医学的な話ではないが、ギリシャの哲学者は酒に対するある種の信仰としての【ディオニソス信仰】を持ち、プラトンの書物にも酒に対するメリットを延々と縷々述べている本がある。その本の題名は確か「饗宴」だ。哲学界のロックスター2世のマルクス・ガブリエルがコロナ禍で専門家を為政者にしてはならないの件で面白いことを言っていた。「肝臓の専門医を厚労省の大臣にしてはならない。多分その大臣はビールは肝臓に悪いから禁止しようと言い出す。でもそんなことをしたらビール文化がなくなってしまう。」ドイツの若者達はビールとソーセージで友情を確かめ合い、肩を組んで森を暫く歩き、ビールを飲み直してサヨナラをする。ビールはプリン体が多く、ソーセージを含めた加工肉は発癌性物質が含まれているから俺はやらないと誰かが言い始めたら、次からそいつには電話が掛かって来なくなるに違いがない。

アルコールを入れる前のマッツは冴えない授業をして、生徒のみならず生徒の親から抗議を受ける。アルコールを入れたマッツは教科書を閉じて生徒たちにこう問いかける。「1940年代の有権者になったことを想定して、誰に投票するか教えてくれ。一人目はマティーニが好きで浮気もしている。二人目は朝からシャンパン、ウォッカを鯨飲していつも葉巻を吸っている。3人目は酒もタバコもやらない。家族と動物を愛する、女性関係もクリーンで非常に礼儀正しい男である。さぁこの3人のうち誰を国のリーダーとして選ぶ?」生徒達は当たり前のように一人目と二人目を回避して三人目を選ぶ。私も三人目を選んだ。しかし、社会科の教師マッツの種明かしはこうだ。「一人目は戦勝国アメリカの大統領フランクリンルーズベルト、二人目はダンケルクを指揮した英雄チャーチル首相。三人目はアドルフヒトラー。」生徒達の騒めきとともにチャイムが鳴り、授業が終わる。マッツが言いたいのは、アルコールを入れているかどうかでその人間を判断するなということだった。

しがない高校教師達の冒険は予定調和的にカタストロフに向かう。彼らは調子がいいとされる血中アルコール濃度をどんどん高めて行った。ある者はベッドで飲んだ酒を全て失禁によりベッドに垂れ流し妻に発狂され、ある者は自害に至ることになる。マッツも路上で酔い潰れ、明朝息子に家に連れ戻された。妻はマッツに飲酒のことを詰問する。問題のシーンである。この映画に寝盗られの衝撃的なシーンは存在しない。ただ、アルコールが入った状態での危険な会話から長年擦れ違っていた妻が不貞をニュアンスとして告白し、マッツは突如として心の平衡を失った。アルコールが入ったコップを叩きつけ、妻と二人の子供に「勝手にしろ」と怒鳴って家を出ていく。夫も妻も潜在的には男と女なのであり、その歴然とした事実が突如として頭を擡げる瞬間は性という巨大なエネルギーを孕むだけに危険である。精通後から長年積み上げて来た男のナイーブな尊厳が吹き飛んでしまう出来事、その現象が寝盗られだ。男たちがそれぞれの妻の股間に飼っている一匹の蟾蜍は自分自身の人生を崩壊しかねない奇妙な動物である。今はまだ、この言葉の意味は理解されないかもしれない。このシリーズは寝盗られた男たちを映画を通し様々な方向から探って行こうとする野心を抱くものである。シリーズが終わる頃には先の言葉はきっとそれぞれの腑に落ちているはずだ。

家に戻るとマッツの妻は子供を連れて出て行っていた。子供の誕生会を口実にカフェで妻とコンタクトを取ることに成功したマッツ。その席でやり直したいと哀願するマッツの表情は北欧の至宝という異名を恣にする輝きを放つ反面、我々男たちの目を覆うものがある。相対する妻の表情は石のように固く神経質で、紡がれる言葉も「もう遅い」とその類のものだ。並行して校内でアルコールの瓶が見つかり問題となる。全教諭が集まった校内会議に妻に出て行かれたマッツを慰めていた体育教師が酩酊した状態で入って来てカタストロフは終焉に向かう。

卒業試験のシーン。顔面蒼白になった生徒に独身の教師は水を飲んで少し落ち着けと言ってアルコールの入った液体を飲ませる。朗らかになった生徒は同じくデンマークのキュルケゴールの絶望の概念を朴訥と語り出す。その生徒は辛うじて卒業試験にパスした。卒業式は体育教師の葬式と重なる。生徒たちはバスを借り切ってアルコールを浴びながら街を凱旋している。喪服を着た教師と酩酊する卒業生が交錯して物語はラストに向かう。冒険の生き残りの教師は生徒たちから胴上げをされ「こんなの初めてだ。」と歓喜の言葉を漏らす。そしてマッツの携帯には妻からの「私も貴方と同じ気持ちよ。」と復縁メールが入る。

この映画には伏線が貼られていて、仲間達は口を揃えてマッツに「昔みたいに踊ってくれよ。こんな感じで踊っていたじゃないか」と言う。新しいカクテルを開発してみんなで踊っていたシーンでもマッツだけは傍観していた。ラストではアルコールへの賛美と共に伏線の総回収がある。マッツ・ミケルセンは遅咲きの俳優で31歳で演劇学校に入るまで国立のバレエ劇団にいたそうだ。これほど人が延々とアルコールを摂取する姿をいつまでも眺めていたいと思うことはなかっただろう。アルコールを入れながら目まぐるしくステップを踏んで華麗に舞う北欧の至宝の疾走感が凄まじい。誰もが笑顔で、鬱屈としている者は一人もいない。何度も見たくなるラストシーンだ。そうであればハッピーエンドであるに他ならない。これはアルコールに挑戦した中年男たちの冒険譚であると同時に酒を愛した男たちの鎮魂歌でもある。